「好戦的」な10代女性と「平和主義」の60代男性?

 『AERA』2016年5月16日号で【大特集:あなたは憲法が好きですか?】という特集をしており、ちょっと気になる記事があったので買ってみたのだが、最初にお目当てだった記事よりも興味深い記事があったので、講義資料のメモを兼ねて以下に記しておく。 

AERA(アエラ) 2016年 5/16 号 [雑誌]

AERA(アエラ) 2016年 5/16 号 [雑誌]

 

  本エントリーのタイトルは少し煽り気味でスイマセンなのだが、初読の際に印象に残ったのは、まさにコレだったのだ。

 本当は掲載されている男女の世代別のデータも含んだグラフ全体を載せたいところなのだが、さすがに悪いので、以下、概要をかいつまんで。なお、本記事は、国民投票住民投票情報室の今井一氏によるもの。氏は以下のような本も出されているので、参考までに。 

  記事は「自衛戦争自衛隊認めますか?」というタイトルのもので、11都府県700人への対面調査を行っているが、この結果が、とても面白い。以下2つの設問に対するアンケート結果。(但し、実際の誌面を見て貰えば分かるのだが、いずれの設問も、実際のアンケートで使用されたものは、もう少し詳細なものになっていることを注記しておく)。

 

※ 以下、数字は全て「%」表示。 

 

設問1.「戦力としての自衛隊を認める?」
[以下、認める/認めない]
[全体] 66.5 /33.5
[男性] 77.9/22.1
[女性] 55.0/45.0

 

 男女でクッキリ差が出ている。年齢別で見ると更に面白くて、設問1に「認める」と回答したのが最も多かったのは[男性20代]で、92.6。女性はほぼ全世代にわたって軒並み「認める」が50を大きく割り込んでいる。

 しかし、[女性10代]だけが突出してその傾向から逸脱しており、71.7が「認める」となっている。これは何故なんだろうか?

 全体として見た場合の大きな傾向性としては、男女を問わず、高齢者(60歳以上)になるほど「認めない」傾向が強い

 

設問2.「自衛のための戦争を認める?」
[以下、認める/認めない]
[全体]53.6/46.4
[男性]65.3/34.7
[女性]41.8/46.4

 

 またもや男女差がクッキリ。先ず女性に関しては、[女性40代]が「認めない」で突出しており66.7。最も「認める」のは[女性30代]で51.9。コレは本当に不思議。

 [男性20~40代]が軒並み「認める」の割合が高く、76~80となっているが、[男性50代]から56.3とガクンと落ち込み、[男性60代]になると男性内で最低の42.9まで落ち込むしかし、[男性70代]になると再び「認める」が55.6まで回復。

 

● この[男性60代]というのは、とても興味深いのだが、以下などを読めば何か分かるのだろうか?(未読)メモ代わりに。 

  

 今回は n=700 だったワケだが、これがもっと大規模に行われたらどうなるのか実に興味深いと思ったし、また憲法記念日の新聞などでも、こういう客観的なデータをもっと載せて、議論の土台を作るように努めて欲しいと思った。--以下はこの調査結果を見て思ったことなどを羅列的に。

 

自衛隊を戦力として「認める」けど、自衛戦争は「認めない」”という人は、[全体]で12.9、[男性]で12.6、[女性]で13.2いるということになる。

 ● 自衛戦争を「認めない」ってのは、何なんだろう?「非暴力不服従」?「絶対的平和主義」?・・・本当に、そんなコトを考えているのだろうか。「戦争」という言葉に脊髄反射してるだけでは、という疑いを持った。

●  上記の「非暴力不服従」や「絶対的平和主義」の立場は、「殺されても殺さない」といった凄まじく高い道徳的要請を内包するものであり、仮に先の12.9の人びとがそれを真摯に信じていたとしても、それ以外の80を越える人びとにもそういう考え方を押しつけるのは無理ではないだろうか(実際わたしはお断りである)。

● これら2つの立場が9条の解釈として「無理である」というのは、修正主義的護憲派の代表的論者である長谷部恭男も認めている。以下に、とても分かりやすく書いてあるので参照されたい。 

憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)

憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)

 

● 余談ではあるが、私は上記の長谷部本を使って10年近く一年生向けの基礎ゼミをしてきたが、年を追うごとに「改憲」の立場を採る学生は増えて来ており、彼らの話を聞く限りでは別段「右翼」とか、そういうワケでは毛頭なく、自然体でそう思っているのを目にしている。

 ● また、上記の12.9%の人びとは、「自衛隊は戦力である。しかして、自衛戦争はダメだ。」という立場なのだが、これは一体どういう立場なのだろうか?「自衛隊はどうすれば良いのか」という観点からするなら〈壮大な欺瞞〉か、あるいは本当に〈何も考えていない〉かの二択なのでは?(コレが「在日米軍に完全にお任せ」ということを含意しているのなら、欺瞞もココに極まれりという感想しかない)

● 以上の点からするなら、ある種の解釈の歪みが自衛隊員へのしわ寄せとなっているのではないだろうか?ここ最近の議論を見ていて私が最も気になる点の一つはコレである。

 ● この点については、書き出すとキリがないので、最近出た下記の本を是非読んで欲しい。『兵士を見よ』以来の杉山隆男による「兵士」シリーズに匹敵する名著だと思う。 

自衛隊のリアル

自衛隊のリアル

 

 

・・・と、ココまで書いたところで非常に詳細なデータなども含むエントリーが冒頭に紹介した国民投票住民投票情報室のサイトに上がっているのを発見して脱力した(汗。以下、参照。

 

「自衛戦争」と「(戦力としての)自衛隊」に関する世論調査 | [国民投票/住民投票]情報室 ホームページ

 

  色々な思考を触発する、とても良い内容なので、上記、是非ゆっくりと、どうぞ。

 

【追記】最初にも書いた通り、タイトルが煽り気味なので、念のため正確なデータを付記しておくと、以下の通り。

[10代女性]

 戦力としての自衛隊を認める=71.7(女性内で最高)

 自衛のための戦争を認める=42.6(女性内で3位)

[60代男性]

 戦力としての自衛隊を認める=64.9(男性内で最低)

 自衛のための戦争を認める=42.9(男性内で最低)

公民権運動の長い隊列 (Obergefell v. Hodges)

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(上写真は、http://u111u.info/m4xF より)

 講義でも毎年、Bowers v. Hardwick, 478 U.S. 186 (1986) から始まり、Lawrence v. Texas、539 U.S. 558 (2003) に至るまでの歴史を話しているので、以下、講義ノートの改訂のための備忘も兼ねてメモ。適宜、内容を補充し、その都度、tweet などで告知することとしたい。

 

 アメリカ合衆国連邦最高裁判所は2015年6月26日、同性婚を禁止した州法を合衆国憲法修正第14条に基づき違憲とする判決を言い渡した。公民権運動の長い隊列に連なる歴史に新たな1頁が加わった。

 判決に関する詳しめの分析は以下の記事が参考になる。

  http://www.nytimes.com/interactive/2015/us/2014-term-supreme-court-decision-same-sex-marriage.html

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 歴史的判決であるが、結果は5対4の僅差で、判断は「(違憲)Kennedy, Sotomayor, Ginsberg, Kagan, Breyer」対「(合憲)Roberts, Alito, Scalia, Thomas」。

 合衆国最高裁の現在の構成(リベラル4、保守4、中間1)等は以下が分かりやすい。「5.6 現在の構成」の項目を参照。

 合衆国最高裁判所 - Wikipedia

 この判決を歓迎するリベラル側の反応は至るところで目にすることが出来るだろうから、保守派(共和党側)の反応に関する興味深い記事を以下にリンクしておく。New Republic 誌の記事で、タイトルは「同性婚と共和党の安堵の溜息(Gay Marriage and the GOP Sigh of Relief)」。 

www.newrepublic.com

 余談だが、GOPは Grand Old Party の略で共和党の別称。ロゴマークにもなっている。右下の小さなアイコンは共和党のシンボルの「象」(民主党は「ロバ」)。

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 追記:この記事の方が更に分かりやすいかも>保守派の安堵。

www.washingtonpost.com

 要するに同性婚をめぐる政治闘争には、とっくの昔に決着がついていて、共和党支持者でも若者とかは同性婚に対して寛容だし、共和党が激戦区を勝ち抜くために同性婚に対して明確な態度(反対)を採れば採るほど、政治思想上のポジションが中道から大きく外れる事態になっていたということ。コアな保守層にイイとこ見せるために無理くり闘ってきたのだが、これでやっと同性婚反対と言い続けるのをやめられて、ほっとしたという話。政治の妙を感じる話である。

 

 今回の判決(Obergefell v. Hodges, 576 U.S. ___ (2015))に関しては、現在進行形で編集中だが、以下に情報がまとまっている。下記、合衆国連最高裁のエンブレムの下の方に「Announcement Opinion announcement」というPDFファイルへのリンクがあるが、ここにシラバスが載っており、それを読むと判決の要点が分かる。

 Obergefell v. Hodges - Wikipedia, the free encyclopedia

 結果は歓迎すべきものだと考えるが、Kennedy の Majority Opinion で示された「結婚を神聖なものとして絶賛する」という趣旨の判決文の下りには若干の違和感(剥き出しのモラリズムのようなもの)を感じざるを得なかった。 

No union is more profound than marriage, for it embodies the highest ideals of love, fidelity, devotion, sacrifice, and family. In forming a marital union, two people become something greater than once they were.---Justice Anthony Kennedy

 その後、上記に関しては以下のような卓見があり、なるほどと思ったが、しかし、法の生命線は道徳との分離なので、たとえ方便だとしても危うい綱渡りだよね、と思うなど。

  とはいうものの、初めて読んだ時には怒りさえおぼえたBowers v. Hardwickからおよそ30年、ストーンウォール叛乱(1969)から数えるなら実に46年。ようやくここまで来た、という感慨は拭い得ない。

 ホワイトハウスの公式tweetで下のようなものを見た時には、思わず涙が出てしまい、アタマの中に Beatles の All you need is love. が鳴り響いた。下のYoutube流しながら、ホワイトハウスのgif画像みてみるとイイ・・・。


Love Is All You Need - Beatles

 

  赤は共和党のカラーで、青は民主党のそれなのだが・・・

 

 なお、これまでの経緯に関して、日本語で読めるコンパクトなものとして、宍戸常寿「合衆国最高裁同性婚判決について」法学教室 2013年9月号(No.396)。

 法学教室 2013年9月号(No.396) | 有斐閣

 以下の事柄について触れていたと記憶している。2年前の「結婚防衛法(DOMA)」に対する連邦最高裁からの違憲判決に関する記事で、奇しくも今回の判決と同じ日付である(6月26日)。

newsphere.jp

 

 

 Bowers事件などに関しては、小泉良幸『リベラルな共同体』(勁草書房、2002年)、特にその第1部によくまとまっていた記憶がある。 

リベラルな共同体―ドゥオーキンの政治・道徳理論

リベラルな共同体―ドゥオーキンの政治・道徳理論

 

 

  最後に、惜しくも2001年に44歳の若さで早逝したノンフィクション作家・井田真木子による『もうひとつの青春―同性愛者たち』(文春文庫、1997年)も、この際、思い出されても良いのでないだろうか。

 極めて優れたノンフィクションであり、その中では、所謂「府中青年の家事件」についても触れられている。

もうひとつの青春―同性愛者たち (文春文庫)

もうひとつの青春―同性愛者たち (文春文庫)

 

  以下の引用にも見られる通り、ここには一筋縄では行かない歴史があり、それもまた現在進行形で存在している。

サンフランシスコのカストロストリートは、たしかに異性愛者に拮抗して同性愛者の権利平等を勝ち取った街だったが、それは、同性愛者の中での平等を意味しなかった。あえて言えば、それは白い肌を持つ共和党支持の男性の同性愛者にとっての平等だ。そのほかの人々は、彼らが築くヒエラルキーの下部に配置された。ヒエラルキーの下層はアジア系が占め、また女性はつねに男性の下に位置された。すなわち、アジア系のレズビアンが最下層である。頂点に立つ白人同性愛者の男性は、香港あるいはフィリピンの移民のレズビアンが、どれほど貧困に苦しもうが、街路でレズビアン嫌いの男に殴られようが、ともに闘う姿勢はまず見せない。寧ろ、自分たちの富の蓄積に忙殺されている。また、ベトナムやタイの男性同性愛者に関しては権利などには無知なかわいい“坊や”であってほしいと思う一方で、自分たちが異性愛者から二等市民扱いされることには憤激する。[井田(1997): 85-86]。

  この先にも未だ、遙かに長い道が続いている。

 

  なお、 公民権運動(人種)については既にまとまったエントリーをアップしてあるので、そちらも参照されたい。 

taniguchi.hatenablog.com

「就活後ろ倒し」とかへの教員側の雑感


 過日、ご縁あって或る大手人材会社の方とお会いし、昨今の大学生の就職/就活状況についてご説明を頂いた。

 最初に断っとくけど、以下、特に私の「所感」に関わる部分は、文系、特に法学部を念頭に置いた話が主なので、その他の学部の話とかはよく知りません。理系とかは別の星の話だしな。あと以下では、しきりに死ぬ死ぬ書いてるけど、別に就活失敗しても死ぬこたないので、その辺りの話はまた別の機会にする。わたしは「死んだら終わり教」なので、死なないように。

 さて、頂いた話のポイントは幾つかあって、大略、以下のような点についてお話し下さった。

1.求人倍率(要するに就活市場の景気)
2.就活時期の後ろ倒し問題(3ヶ月遅くなる)
3.就業観の重要性

 ご説明によるなら、新卒採用における求人倍率は比較的良好に推移して来ており、1991年以降で最高だった2008年と2009年3月卒の「2.14倍」には達しないものの、2011年から急速に落ち込み「1.2倍」近辺をウロウロしていたものが、2015年3月卒では「1.61倍」となり、よほどのことが起きない限り、2016年3月卒に関しても上昇トレンドなのではないかと。但し、いきなり「2倍」とかまでは行かないだろうとのこと。

 「景気動向指数」の動向を、ワンクッション置いて「求人倍率」が後追いする傾向があるとのこと。新卒は3月に一括採用なので、そりゃタイムラグ出るわな、と。ちなみに2008年リーマンショック(9月15日発生)の時はドーンと景気動向指数落ちてるが、それが反映されるのは2009年3月卒ということ。

 このような中、2016年3月卒以降の就活生は、これまでと全く違ったスケジュールで動くということになっており、概略以下のような感じになるらしい。

α:これまで(2015年3月卒以前)

 3年の12月に就活始まる → 早い人は4年のGWまでに内定、夏までやってる人は大変

β:これから(2016年3月卒以降):3ヶ月後ろ倒し

 3年の最後3月に就活始まる → 早い人は8~9月に内定、下手したら12月~翌年3月まで

 

 教える側からすると、要するにコレは「民間企業を志望している学生は4年の前期はゼミ参加出来ませんね」というコトだと理解した。コトの是非はともかくとして、これが現実。
 この辺りのコトは色んな議論があるとは思うのだが、教員側のザッハリッヒな対応としては、ゼミを通年ではなく、前期・後期の2単位ずつに分割し、8月~9月までで就活が終わった学生を後期からゼミに迎え入れ、学生時代最後のノビノビと勉強出来る時間を確保することくらいではなかろうか、とも。

 話は戻るが、上記の就活スケジュールの変更は、あくまでタテマエ上のもので、日本企業でも敢然とコレを無視すると公言しているところもあるし、外資や地方の有力企業などでは、3年最後の3月よりも全然前からリクルートをやってるから、「就活が3ヶ月後ろ倒しになったんだあ」とかボーっとしていると即死とのことだった。色々怖い(ためになる)話も聞いたが、ココには書けないので、私を知ってるひとは直接会った時にでも聞いて下さい。

 上記の話に関連して、私のゼミの卒業生の西村創一朗さんが面白い記事を書いているので、以下参照。

3月1日に解禁になったのは採用活動であって就職活動ではない。 | Now or Never

 以上を踏まえた上でご説明頂いたのは、最初に書いた通り、求人倍率が一見、良好に推移しているに見えるので、それと反比例して学生の就活に関わる「活動量」が有意に低下しているとのこと。要するに「3年最後の3月から就活始まるぜ!」とか思ってたら死ぬよ、ということ。

 結論としては、「就業観」を早めに醸成しないと大変だよ~、というお話で、興味深い図表なども見せて頂いたのだが、これは非公開資料だったので、以下は私が覚えてる限りで、自分の考えも交えて書いておく。

 「就業観」ってのは「どんな仕事をしたいか」とかいう考えを持ってることみたいなんだけど、これまで10年以上、大学教員やって来て、就活が始まった段階で、それがハッキリしてる学生なんてほとんど見たことがない。いや、そりゃ数人は居たし、確かにかなりイイとこに就職したけど、そういうのは変態ですよ。だって3年の早い時期から「ボクは鉄(※電車じゃなくてFeね)にしか興味ありません」とか言ってんだよ(N君、スマン・・・)。

 色々聞いて思ったのは、この「就業観」というのを醸成するためには、ゼミのOB・OGとかと積極的に交流する機会とか、とにかく実際に仕事してるオトナと会って話す機会を増やすしかないな、と改めて思った。ちなみに、大学教員は、そのほとんどがオトナではないコトは言を俟たない。

 以前、何かの記事で慶應はこの点ズバ抜けてて、ゼミの呑み会とかにしょっちゅうOB・OGが来るので、自然と学生が「社会化」されるみたいな話を読んだ記憶があるが、これは本当にその通りだと思った。(慶應のひとは私に何かくれてもイイよ)

 これは就活だけに限られない話で、子どもの頃からどんだけマトモなオトナに会う機会があるかは、文化資本の重大な原蓄(原始資本蓄積)になってるとも思う。

 そういうワケで学生の皆さんは、マトモな社会人とたくさん会って話をする機会を作って下さい。わたしもゼミ生には、その点、出来る限りサポートしますから。オトナは徒手空拳で押しかけてくる若者には意外と親切なモンなのです。

2015年度ゼミのお知らせ(4月4日版)

 今年4月からの谷口(法哲学)ゼミについてのご案内、改訂再掲。英語文献2冊読むと下には書いてありますが、様子を見て、場合によってはシェリングの1冊のみでも。

 本日夕方がWebシラバスの入力〆切だったので、さっき登録完了しました。というわけで、以下、今年の4月からの谷口ゼミ(法哲学)の簡単な紹介。ゼミは、やる気があれば、2年生からでも参加可能です。

 今回は少し欲張りで、以下の英語の本を2冊読みます。1冊目は、ノーベル経済学賞受賞者でもあるトマス・シェリングの名著 Micromotives and Macrobehavior。1978年に出た本で、2006年にノーベル賞受賞スピーチも収録した増補版のペーパーバックが出てます。めちゃくちゃ面白い本なので、騙されてでも一度は読むべき。 私は昔、法社会学の太田勝造先生のゼミで読みましたが、面白くて興奮したの覚えてます。

Micromotives and Macrobehavior

Micromotives and Macrobehavior

 

  もう1冊は、「郊外の正義論」とでも言うべき本で、Thad Williamson という人の『スプロール、正義、市民権(Sprawl, Justice and Citizenship)』(2010年刊)。スプロール化に関する実証研究をもとに、正議論(エガリタリアン、リベラル、リバタリアン、共和主義 etc...)を用いて郊外コミュニティのあり方を斬る!という感じのもの。これは少し分厚いので部分的に読むことになるかも。 

Sprawl, Justice, and Citizenship: The Civic Costs of the American Way of Life

Sprawl, Justice, and Citizenship: The Civic Costs of the American Way of Life

 

  全体を通したテーマは、ちょっと付けにくいのだけれども、「ひとの移動の基礎議論」と「郊外の正義論」という感じで。

 基本的には法学系の学生対象のゼミですが、これまで通り、人文社会系の学生の参加も歓迎します。

 この項、また加筆するかもしれませんが、取りあえず速報で。

 

哲学者の朝の祈りは新聞を読むことである(?)

 大昔、井上達夫先生の講義を聴いていた際、ヘーゲルの言葉として「哲学者の朝の祈りは新聞を読むことである」という言葉を耳にした記憶があり、とても良い言葉だと思い、ずっと覚えていたのだが、ふとヘーゲルが何の中で書いてる言葉なんだろう?と思い、調べてみた。

 私はドイツ語にはそれほど堪能ではないので、まず英語で調べてみると以下を見つけることが出来る。やはり有名な言葉なようだ。

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Reading the morning newspaper is the realist's morning prayer. One orients one's attitude toward the world either by God or by what the world is. The former gives as much security as the latter, in that one knows how one stands.
Miscellaneous writings of G.W.F. Hegel, translation by Jon Bartley Stewart, Northwestern University Press, 2002, page 247.

Georg Wilhelm Friedrich Hegel - Wikiquote

   ヘーゲル自身の言葉は「リアリストの朝の祈りは、新聞を読むことである」であり、恐らく井上先生は、この言葉をもじって話されていたところ、私はそれをそのままヘーゲルの言葉と誤解して記憶し、今日に至っていたのだろう。

 問題は「典拠」で、英語ベースでこの手のことを調べると頻繁に遭遇する事態なのではあるが、Miscellaneous writings of G.W.F. Hegel では、正確な典拠が分からないのである・・・。
 日本人(の特に研究者)がヘーゲルやカントを引用する際に、こういうものから直に引いてくるのは、ちょっと考えられないことなのだが、アメリカ人だと結構有名な研究者とかでも平気でこういうものから引いてくるケースが多数あり、彼我の文化的な差異を感じる・・・。

 閑話休題。

 上記の英文から推測して、ドイツ語でよちよちと検索すると、更に次のような検索結果が出て来る。何のことはない、ドイツ語版Wikiの「Hegel」の項目に以下のように記されていたのだった。

Den zu dieser Zeit verstarkt auftretenden Massenmedien blieb er jedoch treu: „Die regelmasige Lekture der Morgenzeitung bezeichnete er als realistischen Morgensegen.“ 

Georg Wilhelm Friedrich Hegel – Wikipedia

 プロイセンがナポレオンに敗れたためイエナ大学が閉鎖された後の『バンベルグ新聞』の編集者時代(1807~1808)の言葉とのコトで、「この時代までにマスメディアは勃興しつつあったが、彼(=ヘーゲル)は誠実に、毎朝の新聞を読むことはリアリストの朝の祈りであるとしている」という感じのことが書いてある(と思う)。Wikiの脚注によるなら、上の典拠は以下の通りである。

Anton Hugli und Poul Lubcke (Hrsg.): Philosophie-Lexikon, Rowohlt Taschenbuch Verlag, 4. Aufl. 2001 Hamburg, S. 259

 えっ、これってヘーゲル自身のではなく、Hugli と Lubckeって人たちが編集した『哲学事典』の項目じゃないの?汗
 あと、上記のドイツ語版Wikiに記されているのは、テキトー訳からも分かる通り、ヘーゲルがこういう風に言ってるよ~、という、やはり「又聞き」の類で(ドイツ人よ、お前もか・・・)、最初に挙げた英語のものと平仄の合ったものは何だろう?と思い更に調べてみると、ドイツ語でも色んなバージョンが出て来てしまう・・・一体どれが正しいの???汗

1)Das Zeitungslesen des Morgens ist eine Art von realistischen Morgensegen.
2)Das Zeitunglesen am Morgen ist eine Art realistischer Morgensegen.
3)Die Lektüre der Morgenzeitung des Realisten Morgengebet ist.

 日本語でも別バージョンが存在しており、「新聞を読むことは、近代人の朝の祈りである」という言葉も流布してもいるようである。

 よく分からなくなってきたので、この項、とりあえずココまでにしておき、今度、研究室に行った時にでも改めて書庫に潜って調べることとする。

 こういうコトを調べ出すと、とても楽しく、研究者になりたての頃の悦びを思い出したりもするのだが、最後は(当然だが)紙の本にあたらないとな、という・・・。

 

追記:・・・と、ココまで書いたところで昔、加藤尚武先生たちが千葉大でやっていたヘーゲル文献の悉皆データベース化を思いだした。以下のような形で引き継がれているようである。

ヘーゲル・テキストデータベース(日本語サイト)

 

ブラウンからブラウンへ?(公民権運動のおさらい)

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 上の写真にもある通り、ミズーリセントルイスファーガソンで起こった白人警官による黒人少年射殺事件をめぐり、再び暴動が起きている。ちょうどロースクールの講義でブラウン事件についての話をする日に大陪審の決定が出て、結果、警官不起訴→暴動再燃となったのだった(今ココ)。

 twitterでこのコトについて触れたところ、驚くほど一連のtweetsがRTされたりふぁぼられてたりしたんで、来年以降の講義でも、これに関することは触れるから、視覚資料置き場も兼ね、以下、少し整理した上でtweetsの再掲プラスアルファを置いておく。なお、今般の暴動に至るまでの経緯については、とりあえず以下を参照。

 

●アメリカ・ミズーリ州黒人青年射殺事件 拡大する暴動とこれまでの経緯

http://matome.naver.jp/odai/2140849272340847901


 今回の射殺された黒人少年は、マイケル・ブラウンという名前なんだけど、奇しくも、今を遡ること60年近く前の公民権運動の金字塔たる「ブラウン事件」の原告と同じ名前。

 ブラウン事件については、毎年、講義の中でアメリカにおける社会的イシューが司法回路にアピールする傾向が日本とは比べものにならないくらい強い(激しい)という文脈で、「公共訴訟」の典型例として紹介するんだけど、この点については講義中に言及する通り、以下の文献を参照されたい。コレ名著。 

現代型訴訟の日米比較

現代型訴訟の日米比較

 

  大沢先生の本では、『アメリカの政治と憲法』(芦書房、1994年)も面白い。共和主義的憲法理論(解釈)について触れた日本語の本の嚆矢じゃないかな。

 本論に入る前に言っとくけど、とにかく黙って以下の本を読まれたし。コレもホントに名著だから。話はそれからだ。 

黒人差別とアメリカ公民権運動―名もなき人々の戦いの記録 (集英社新書)

黒人差別とアメリカ公民権運動―名もなき人々の戦いの記録 (集英社新書)

 

  講義ではNAACP(全米黒人地位向上協会)がリンチ禁止立法を諦めて法廷闘争のためにLDF(Legal Defense Fund)を作ったって話をさらっとしてるけど、リンチとかどんだけアレだったか、これ読めば分かる。酷い話ですよ・・・。以前、講義中にこれを薦めたところ、読んだ学生がやって来て「新書を読んで初めて泣きました」とか言ってたくらい。リトルロック事件の話とか後日譚も含め感動的。そういうコトの積み重ねの上で、今回、現在進行形の暴動なわけ。

 全然知らない人のために簡単に説明しとくと、アメリカは1954年にブラウン判決というのが出されるまでは、人種隔離政策(segregation)をやっていた。そんな中、このブラウンちゃん(当時8歳、下写真)が原告になって、人種別学制度は違憲だ!という裁判起こし、結果として連邦最高裁は彼女の主張を支持したわけ。

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 結果、人種統合教育が行われるようになり、これまで白人しか行けなかった学校に黒人の生徒が通うというような事態が生じることになった。

 そんな中、判決から3年後の57年に起こったのが、リトルロック事件。アーカンソー州リトルロックにあるセントラル・ハイスクールに、これまで白人オンリーの学校だったところ、ブラウン判決(人種統合教育しろや)を承け、黒人生徒が登校しようとしたら、当時の州知事があからさまな人種差別主義者で、州兵まで出して登校を妨害し、連邦政府を巻き込んだ大騒動になった。

 このことについては、ハンナ・アレントも「リトルロックについて考える」という文章を発表しているが、これは、2007年に筑摩書房から出た『責任と判断』という邦訳の中の収録されている。・・・のだが、念のため翻訳を見てみたら・・・なので、誰か親切な人がスキャンしてアップしてくれている下記の原文の参照をオススメする。「アーカンサス州」は無いよ・・・。

● Hannah Arendt, Reflections on Little Rock

 http://learningspaces.org/forgotten/little_rock1.pdf

 閑話休題

 その時に撮影されたアメリカ史上最も有名な写真のひとつが、コレ。Little Rock Nine とかで検索すると出て来る。人種別学を撤廃したアーカンソー州リトルロックの高校へ登校しようとする黒人学生への嫌がらせをしている場面。

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 サングラスをかけた中央の黒人女性がリトルロックナインの1人であるエリザベス・エックフォードで、彼女の左肩後ろで憎悪に満ちた表情で罵声を浴びせている白人女性がヘイゼル・ブライアン。

 ブライアンは、この写真のお蔭で長らく人種差別的憎悪のアイコンになってしまい、その後、けっこう苦しんだらしいのだが、実にこの40年後、エックフォードと涙して和解したらしい。下の写真は40年後の2人。

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 話を戻すと、下は連邦第101空挺師団(airborne)に守られながら登校する黒人生徒たち。さっき言ったように州知事が人種差別主義者で州兵出して黒人学生の登校を邪魔したから、アイゼンハワー大統領がブチ切れて連邦軍送っちゃったんだよね。

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 人種隔離政策を撤廃へと導いた金字塔がブラウン事件だったワケだけど、社会全体を覆う《意味秩序》を、こういう風に、或る日を境に一変させるような企てってのは、そう簡単に行くものでもなく、その結果、今回のミズーリ州の暴動に至るわけ。

 日本における違憲判決が、この60年近くで、法令違憲9件、適用違憲12件の計21件なのに比べるとアメリカの違憲審査制の活発さと言ったらアレなんだけど、そうせざるを得ない程の社会的断絶が巨大な規模で発生するので、それに対応せざるを得ないという面もあるのではないか、と(エアリプで、アメリカの地方政府とか企業のアレさ加減も、社会運動の強烈さの原因というのを見たが、それも大いにあると思う)。

 講義でも良く言うように、アメリカってのは、憲法に内在する公共的価値を、そういう大規模で深刻な不正義の状況が現出するたびに、法廷で争い、《再現前》させる、「公共性の劇場」を、劇団四季のキャッツみたいに、ずーーーっと連続公演でまわしてる国ってコト(日本は何だろうね。文楽とか?)。

 まあ、そうであるからして、日本の最高裁違憲判決なかなか出さなくてチキンだ!みたいな話は、いやいやブラウン事件とその(一種悲惨な)帰結みたいなのを見る限りでは、どっちがイイのかねえ、と思わされるのであった。

 昔、アメリカに行ってた友達がくれたお土産で、Constitutional Law for a Changing America っていう巨大な本(897頁・・・もはや凶器)があるんだけど、コレとか読むとアメリカの著名な憲法判例とかに関する社会的・政治的背景が詳しく分かって面白い。余りにも巨大なんで暇のある時におもしろ半分に読んでて通しで読んだことは無いが、日本でも、こういう本が出るとイイのにと思う。 

  日本語で書かれた日本の司法に関するもので、これに類するのは、以下。これはホントに面白いので、コレも黙って読まれたし。話はそれからだ。全逓東京中郵事件とか、何でああいう判決になったのとか、良く分かる。 

最高裁物語〈上〉秘密主義と謀略の時代 (講談社プラスアルファ文庫)

最高裁物語〈上〉秘密主義と謀略の時代 (講談社プラスアルファ文庫)

 

 

 以下は、おまけ。

 

 白水社からの近刊で、デイヴィッド・レムニック著『懸け橋(ブリッジ)--オバマとブラック・ポリティクス』 もある。大著だけど、オバマとの絡みでブラックポリティックスについて書かれたもの(上下巻)。 

懸け橋(ブリッジ)(上): オバマとブラック・ポリティクス

懸け橋(ブリッジ)(上): オバマとブラック・ポリティクス

 

 

このサイトも中々イイ。公民権運動史跡めぐり、みたいな。・・・というか、これ、後でじっくり読んだが改めてもの凄い話だな・・・。下記、是非読まれたし。http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/civil_06.html

 

 ゾンビ小説読んでると、ゾンビの人権を守れ!という人権団体が登場するのがあるんだけど、そこにも「我々は公民権運動の長い隊列の末尾に連なっているのであり・・・」みたいな記述が出て来たりするんだよね。S.G.ブラウンの『ぼくのゾンビライフ』っていうやつだけど。こいつもブラウンか・・・汗 

ぼくのゾンビ・ライフ

ぼくのゾンビ・ライフ

 

 最初に戻るけど、ネットで見て回ったら、今般、現在進行形の事件、マイケル・「ブラウン」事件という呼び名がついてるのね・・・。今回の舞台は、ミズーリセントルイス郡「ファーガソン」なんだけど、1954年の「ブラウン」判決が覆した先例(分離すれども平等 separate but equal)の名称、実は Plessy v. 「Ferguson」判決なんだよね・・・、こちらのファーガソンルイジアナ州の裁判官の名前だけど。文字面だけ一致してるって話で、一歩間違えれば電波なんだけど、ほほぉ、と思った。

 ま、こんな感じで。

 

 

ヘヴィメタルと正義の女神

 最近、BABYMETAL を知った。ナニコレ、面白い・・・。ももクロの次はコレですかね。


BABYMETAL - WORLD TOUR 2014 - Trailer - YouTube

 以下に BABYMETAL についての分かりやすい説明があるので参考までに。凄いね。

 http://rakuchin.at.webry.info/201407/article_8.html

 メタルは、高校生の頃に聞いていて、Metalica とか Iron Maiden とか有名どころを少々。メタリカの“Aces High”は今でもカラオケで歌える。


Iron Maiden - Aces High - YouTube

 それで思い出したのだが、メタリカのアルバムに"...And Justice For All(邦題『メタルジャスティス』)”というものがあるが、このジャケットは法哲学的には興味深いものとなっている。この話は、毎年、講義でもするので、以下、備忘録的に。

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 法哲学の一分野として「正議論」があるのは周知の通りだが、この「正義」には女神が居て、彼女は(だいたい)いつも同じ姿をとって我々の前に姿を現す。下は、フランクフルトの広場に立つ女神像である。ヨーロッパでは、よくこういう光景を目にする。

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 メタリカの “...And Justice for All” という曲の中に出てくる “Lady of justice” こそが、その女神なのだが、アルバムジャケットに描かれた図像が、このギリシャ神話の正義の女神テーミス(Θέμις, Themis)で、ルドルフ・イェーリングによるなら、以下の通りである。

彼女が手に持つ天秤は正邪を測る「正義」を、剣は「力」を象徴し、「剣なき秤は無力、秤なき剣は暴力」に過ぎず、法は、それを執行する力と両輪の関係にあることを表している。『権利のための闘争』

 しかし、ジャケットに描かれた女神テーミスは縄で縛られ、金によってその天秤は傾けられているのは、以下を聴いての通りの事情による。名曲だ。


Metallica- ...And Justice for All

 以上に関する図像学(iconology)的な観点からの分析は森征一・岩谷十郎編『法と正義のイコノロジー』を参照されたい。 

法と正義のイコノロジー (Keio UP選書)

法と正義のイコノロジー (Keio UP選書)

 

  また、これに関連して、エルヴィン・パノフスキーの『イコノロジー研究』くらいは法学部生でも読んでおくと良いのではないだろうか。 

イコノロジー研究〈上〉 (ちくま学芸文庫)

イコノロジー研究〈上〉 (ちくま学芸文庫)

 

  なお、テーミス像(ブロンズ製)は、法学系の法政研(4号館2F)の各ゼミの資料置き場の棚の上にあるので、一度、実際に見てみると良いだろう。いつか、この像の由来が分からなくなってしまうだろうから、念のため書いておくが、この像は私が教授会で「買ってください!」とお願いして、教育目的で公費で購入したものである。これは本当に価値ある買い物だったと今でも自画自賛している。

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 また、「剣と秤」以外の特徴である「目隠し」は、個体的同一性に基づく取り扱い・判断の別を遮断するものである。この「目隠し」と同様の趣旨の話は、穂積陳重『法窓夜話』中の「三九、板倉の茶臼、大岡の鑷」の中に垣間見ることが出来る。ちなみに『法窓夜話』は、青空文庫で全文を閲覧することが出来る。少々長いが、以下、全文。

 板倉周防守重宗は、徳川幕府創業の名臣で、父勝重の推挙により、その後(の)ちを承(う)けて京都所司代となり、父は子を知り子は父を辱しめざるの令名を博した人である。
 重宗或時近臣の者に「予の捌(さば)きようについて世上の取沙汰は如何である」と尋ねたところが、その人ありのままに「威光に圧されて言葉を悉(つく)しにくいと申します」と答えた。重宗これを聴いて、われ過(あやま)てりと言ったが、その後ちの法廷はその面目を一新した。
 白洲(しらす)に臨める縁先の障子は締切られて、障子の内に所司代の席を設け、座右には茶臼(ちゃうす)が据えてある。重宗は先ず西方を拝して後ちその座に着き、茶を碾(ひ)きながら障子越に訟(うったえ)を聴くのであった。或人怪んでその故を問うた。重宗答えて、「凡(およ)そ裁判には、寸毫(すんごう)の私をも挟んではならぬ。西方を拝するのは、愛宕(あたご)の神を驚かし奉って、私心萌(きざ)さば立所(たちどころ)に神罰を受けんことを誓うのである。また心静かなる時は手平かに、心噪(さわ)げば手元狂う。訟を聴きつつ茶を碾くのは、粉の精粗によって心の動静を見、判断の確否を知るためである。なおまた人の容貌は一様ならず、美醜の岐(わか)るるところ愛憎起り、愛憎の在るところ偏頗(へんぱ)生ずるは、免れ難き人情である。障子を閉じて関係人の顔を見ないのは、この故に外ならぬ」と対(こた)えたということである。
 大正四年の夏より秋に掛けて上野不忍(しのばず)池畔に江戸博覧会なるものが催された。その場内に大岡越前守忠相(ただすけ)の遺品が陳列してあったが、その中に子爵大岡忠綱氏の出品に係る鑷(けぬき)四丁があって、その説明書に「大岡越前守忠相ガ奉行所ニ於テ断獄ノ際、常ニ瞑目シテ腮髯(あごひげ)ヲ抜クニ用ヒタルモノナリ」と記してあった。その鑷は大小四丁あって、その一丁は約七寸余もあろうかと思われるほどで、驚くべき大きさのものである。その他の三丁も約五寸乃至(ないし)三寸位のもので、今日の普通の鑷に較べると実に数倍の大きさである。芝居では「菊畑」の智恵内を始めとし、繻打奴(しゅすやっこ)、相撲取などが懐から毛抜入れを取出し、五寸ばかりもあろうと思う大鑷で髯(ひげ)を抜き、また男達(おとこだて)が牀几(しょうぎ)に腰打掛けて大鑷で髯を抜きながら太平楽(たいへいらく)を並べるなどは、普通に観るところであるが、我輩は勿論これは例の劇的誇張の最も甚だしきものであると考えておったが、この出品が芝居で見るものよりも一層大きい位であるから、当時はこのような大鑷が普通であったものと見える。これについても、今をもって古(いにしえ)を推すの危険な事が知れる。
 余談はさておき、大岡忠相が髯を抜いたのも、板倉重宗が茶を碾(ひ)いたのも、その趣旨は全く同一で、畢竟その心を平静にし、注意を集中して公平の判断をしようとする精神に外ならぬのである。髯を抜きながら瞑目して訟を聴くのも、障子越に訟を聴くのと同じ考であろう。司直の明吏が至誠己を空(むな)しうして公平を求めたることは、先後その揆(き)を一にすというべきである。


 それから、上記「正義の女神」とは別の論点として、このメタリカのアルバムのタイトル自体も重要な論点を提供している。“...And Justice For All” というのは、アメリカ人なら誰でも分かる(はず)の「合衆国国旗への忠誠の誓い(Pledge of Allegiance)」末尾の一節なのである。この誓いは、しばしば合衆国の公式行事で暗誦されるもので、以下の通りである。小学生でも暗誦してる(はず)。

I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.

 これは、講義中でも何度も触れる「共和主義(Republicanism)」の根幹に関わる儀式である。ただ、実際にはアメリカでも、本当に皆が覚えているかというと、ちょっと微妙なところで、以下のように「忠誠の誓い」の暗誦を皮肉ったものも存在している。子供たちのやつの方で、this is not the form of brain-washing とお経のように唱え続ける部分が笑えるのではあるが・・・。

[子どもたち(パロディ)]


The Whitest Kids U' Know - Pledge of Allegiance ...

 

 以上、よしなしごとも含めた備忘録。

 

大学生と電子メール

 今年も新学期が始まったが、わたしは1年生向けの基礎ゼミナールも毎年担当しており、電子メールについて幾つかメモ代わりにここに書いておいた方が良いこともあったので、以下、よしなしごとも含めて。

 昔話になって恐縮なのだが、私が大学生になった頃には未だ携帯電話もそれほど普及しておらず、今のような形の本当に「携帯」出来るような形態のものは、学部の3年か4年くらいの頃からちらほら見始めるようになったと記憶している。つまり電話での連絡はほとんどの場合、固定電話によるものだったのである。余談だが、最初期の「携帯」電話は、以下のような肩掛けで持ち運ぶものだった。わたし自身は、さすがにこれは所持したことはないが、親の知人が持っているのを使ったことはある。

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 従って当時、仲の良い異性が出来たりしても、相手が実家住まいである場合には、相手の家に架電すると「(トゥルルルルル)はいっ!カミナリ寿司です!」などと勢いよく親御さんが先方の受話口に出て来ることもあったのだった(これは私の同級生が遭遇した実話である。彼は恐怖の余り電話を切ってしまったらしい)。この関門を通過出来なければ楽しい学生生活は無いわけであって、ある種、強制的な「社会化」のイニシエーションが存在していたわけである。

 閑話休題。肝心の電子メールなのであるが、大学生が使用するネット上のコミュニケーションツール(含SNS)は、わたし自身が今の大学に赴任して以来、PCメール(携帯メール)、2ちゃんねる、mixi、twitter、Facebook、そしてLINEと変遷して来たが、どうも最近の学生さんたちは、初っぱなからLINEでお互いに繋がっているため、もはや携帯のメールさえ余り使っていないような印象さえ持っている。そのためか大学院生くらいでも余りPCメールのアカウントは頻繁にチェックしていない場合があるようだ。

 90年代にパソコン通信からネットの世界に触れ始めた私としては、もはや隔世の感ではあるのだが、しかし、PCベースでの電子メールのやり取りは、社会人になってからも行われるはずなので、出来るだけ早い時期にメールのやり取りに関して最低限のマナーを学んでおいて頂ければと思う次第である。

 PCでの電子メールのお作法については、以下に大変よくまとまっているので、学生の皆さんは是非読んでおいて欲しい。

 

1)大学教員へのメールの書き方(江口聡先生作成)

 http://melisande.cs.kyoto-wu.ac.jp/eguchi/archives/71

2)メールを書くときには、ここに注意(松岡和美先生作成)

 http://user.keio.ac.jp/~matsuoka/mailsample.htm

 

 わたし自身もスマホを使っており、その便利さは分かっているのだが、長大なある程度以上の長さの文章をキチンと校正しながら作成するのは、やはりPC(しかもデスクトップ)にまさるものは無いので、PCでメールを作成する作法を早めに身につけて頂きたいものである。

 

※ 追記(2015年5月20日)

 以下、非常に興味深い記事。とうとうスマホでもメールの利用率が半数を割ったとのこと。2014年から15年の間に大変動が起こっている?

internet.watch.impress.co.jp

 

2014年度の谷口ゼミ告知

 シラバスが出るのはもう少し先ですが、この4月からの谷口ゼミ(通年・水曜2限)の内容について先取りして告知しておきます。
 今年度は、グローバリズムと人の移動について考えてみたいと思っています。端的に言って「移民」の問題です。
 わたし自身、ここ数年、郊外コミュニティへの関心から派生する形で、様々な実地調査なども行って来ましたが、それらに関して理論的見通しをつけるためにも、今回このテーマを選びました。
 具体的には、現代正義論の知見も用いて移民問題に関して規範的な検討を行う、以下の文献の講読を考えています。本書は、目次を見てもらうと分かる通り、2人の論者が移民受け入れに対して賛成(pro)と反対(con)に分かれ、それぞれの論陣を張るという形のものになっています。 

Debating the Ethics of Immigration: Is There a Right to Exclude? (Debating Ethics)

Debating the Ethics of Immigration: Is There a Right to Exclude? (Debating Ethics)

  • 作者: Christopher Heath Wellman,Phillip Cole
  • 出版社/メーカー: Oxford University Press, U.S.A.
  • 発売日: 2011/09/30
  • メディア: ペーパーバック
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  下記の目次にある通り、前半は「移民反対」の論陣で、平等論(egalitarian)・リバタリアン・デモクラシー・功利主義などの観点からの議論を展開しており、後半は「移民賛成」の立場から「開かれた国境(open borders)」を主張しています。

 

INTRODUCTION

FREEDOM OF ASSOCIATION AND THE RIGHT TO EXCLUDE
In Defense of the Right to Exclude
The Egalitarian Case for Open Borders
The Libertarian Case for Open Borders
The Democratic Case for Open Borders
The Utilitarian Case for Open Borders
Refugees
Toward an International Institution with Authority of Immigration
Guest Workers
Selection Criteria
Conclusion

OPEN BORDERS: AN ETHICAL DEFENCE
The Shape of the Debate
The Case Against the Right to Exclude
Wellman on Freedom of Association
Consequentialist Concerns
Towards a Right to Mobility
Conclusion
Index

 

 最近、安倍政権からのメッセージとして移民拡大などの議論も仄聞するところではありますが、とかく感情的な反応を招きがちな、この問題に関して規範的・分析的に考えてみる、というのが今年のゼミにおける一つの目標です。
 わたし自身、この問題について真剣に考え始めたのは、本学の宮台真司先生も出演している映画『サウダーヂ』を観てからなのですが、この映画を未見の人は、ぜひ機会をつくって観て頂ければとも思います。渋谷のオーディトリウムで何度も再上映しているので、ゼミ期間中に上映されるようなら、ゼミで観に行っても良いかなと思っています。

 

映画『サウダーヂ』

http://www.saudade-movie.com/


 あと、今年度は新規の試みとして、後期・水曜3限に日本政治思想史の河野有理先生と比較政治の梅川健先生と私の3人での合同ゼミを行います。
 演習題目は「米中関係と戦後日本--冷戦を再考する」です。以下、シラバスから若干の抜粋をしておきます。

 20世紀を考える上で致命的に重要なのは「冷戦」である。本演習ではこの問題を取り上げ、それについて考えるための基礎的な知識を習得する。参加者は、課題文献として指定された本を読み、その内容について考え、他者と議論するための作法を学ぶ。
 「冷戦」は、通常、「米ソ」(アメリカとソ連邦)冷戦として捉えることが多い。だが、この演習では、「米中」関係に注目して冷戦を見てみたい。アメリカや中国あるいは戦後日本の政治思想に関する重要文献を、古典から実証研究まで幅広く読む。方針としては、精読ではなく多読を重視し、報告とディスカッションを中心に運営する。担当教員は、二人とも毎回出席する。
 政治や歴史あるいは哲学について、政治思想史や法哲学、現代政治といった専門分野の垣根を越えて、ざっくばらんに議論する。読書が好きな人は、誰でも歓迎する。修士課程への進学を希望する人も積極的に参加して頂きたい。

 1973年生まれの私にとって冷戦は身近(?)なものでしたが、学生の皆さんにとっては、必ずしもそうではないでしょう。谷口と河野・梅川両先生との間にも若干の時代(年齢)的ギャップがありますが、様々な観点から、特に「中国」にフォーカスをあてて冷戦について考えてゆくこととしたいと思っています。ウクライナ(クリミア)問題でも「新冷戦」云々され始めた時期だけに、偶然ではありますが、誠に時宜にかなったものであると自画自賛したいところではありますが。

 以上、熱意ある学生の皆さんの積極的な参加を期待します。

2013年度後期のゼミ告知

 夏期休暇期間も残り3週間を切ったので、後期のゼミに関する告知を行っておく。前期とは分離された2単位半期のゼミである。テキストは、下記の通り Mulgan の著作(下記のAmazonのリンクはハードカバー版で高いが、廉価なペーパーバック版もある)。この本は私の単独訳で多分2014年頃には翻訳が刊行される予定。

Ethics for a Broken World: Imagining Philosophy After Catastrophe

Ethics for a Broken World: Imagining Philosophy After Catastrophe

 参加者は、基本的に本学・法学系の学生(2年次以上)を想定しているが、これまでもそうであったように、本学・人文社会学系で熱意のある学生は歓迎する。以下、シラバスに若干加筆を行ったもの。

首都大学東京/法哲学演習/科目目種別:演習/単位数:2
担当教員:谷口功一
後期:水曜日2時限

1.授業方針・テーマ:現代正義論のSF的展開

2.習得できる知識・能力や授業の目的・到達目標:現代正義論の基本的な議論を丁寧に理解する。登場するトピックは、ノージック、ロック、行為功利主義、規則功利主義、ナショナリズム、福利論、ミルの自由論、ホッブズ、ロールズ、デモクラシーなどである。
3.授業計画・内容:下記、Mulgan の著作を会読する。併せて、正義論関連の邦語文献等も適宜参照する。本著作は気候変動・資源の枯渇などのために破滅の危機に瀕した世界というSF的設定の下、近未来の大学において開講される架空の講義形式をとったものであり、演習では、その17回分の講義内容を丁寧に読んでいく。

4.テキスト・参考書等:Tim Mulgan, 2011, Ethics for a Broken World---- Imagining Philosophy After Catastrophe, McGill-Queen’s UP。適宜コピーも配布するが、出来る限りAmazonなどで各自でも入手されたい。

5.成績評価方法:ゼミへの出席、参加の度合いを総合的に評価する。

6.特記事項:基本的に英語の文献を読むゼミであるが、テキストの英語は易しいので、臆せず参加されたい。なお、初回には必ず参加すること。初回に参加出来ない者は、基本的にゼミへの参加を認めない(同じことを何度も説明するのは大変なコストなのである)。

 

 参考までに、既に作りおいてあった上記 Mulgan著作の試訳と日本語目次も掲載しておく。

 

(試訳)前書き:壊れた世界を想像してみよう

 この本は、もし、われわれが壊れた世界(broken world)に住んでいるとしたら、政治哲学が中心的に扱うテーマや問題が、どのように変化するだろうかを考えるものです。壊れた世界というのは、人びとの基本的なニーズさえ満たせないくらい資源が不足し、めちゃくちゃな気候変動によって生命が危機に晒され、また、世代を重ねるごとに事態が悪化しているような世界のことです。こういう思考実験を分かりやすいものにするために、まさに壊れた世界のただ中で行われる哲学史の講義を想像してみることにします。この講義では、二十一世紀初頭の“富裕代(age of affluence)”と呼ばれた時代に書かれた古典的テキストを学びます。今あなたが読んでいる、この「前書き」と巻末文献リスト以外の本書の内容は、架空の未来の講義録から成り立つこととなります。
 気候変動は、本書の典型的なトピックであり、壊れた世界は、未来のあり得べき姿のひとつでもあります。ただ、本書は、気候変動だけを念頭に置いたものではなくて、壊れた世界という〔思考実験上の〕装置を用いることにより、さまざまな道徳的、あるいは政治的な理念が、たまたまそうであるに過ぎないものだということを強調しようとするものです。そこでは、われわれ自身の社会とその理想を、いわば外側から眺めることになります。壊れた世界に対処するために、現代の哲学をこれまでとは違ったかたちでイメージすることは、現在において過去の政治哲学者たちを彼らが置かれていた文脈の中で学ぼうとするのと同じような利益をもたらしてくれるでしょう。
 道徳哲学や政治哲学が気候変動に対し、どのような応答をするのかについては、時おり間接的に触れることになります。われわれの子孫たちが彼らの世界をどのように見るのか、われわれの遺産をどのように見るのかを考えることで、われわれが自らの生き方を考え直すようになることを望んでやみません。しかし、私はいかなる特定の理論を擁護する気もなければ、何か具体的なアドバイスをする気もありません。本書での私の目標は、読者の皆さんに、何をすべきかを伝えることではなく、自分たちと将来世代の人びととのあいだの関係について考え直す機会をもってもらうことなのです。
 導入レクチャーでは、壊れた世界とわれわれが暮らす「富裕代(affluent age)」とのあいだの主たる相違点について、おおまかに説明します。後段で明らかになるように、文明が完全に崩壊し、現在の人口のひと握りしか生き残らないといった、よくあるポスト黙示録的シナリオは設定しません。そこでは依然として組織化された社会が存在し、各人は壊れた世界の中で、何とかかんとか生き残ってゆく方法を見つけ出しているような状態にあります。壊れた世界の到来が、いつごろのことなのかということに関し、正確な日付は示しませんが、だいたい今から50年から100年後くらいを考えています。読者からすると、この世界の住人たちは、(せいぜい)自分の玄孫くらいで、それ以上遠い世代ではないということになります。また、この架空の講義がどこで行われているのかという点についても、地理的な設定を明確にするつもりはないのですが、北米や西ヨーロッパ、あるいはオーストラリア辺りの西洋先進国の生き残りのどこかで行われているものとします。以上のような非常に一般的な設定以外には、壊れた世界での生活のディテールを描き出すことはしないつもりです。本書は、理論哲学に関するものであり、思弁小説(speculative fiction)の実践ではありません。
 壊れた世界が必ず到来するとは言いません。人類の未来は、それよりも、もっと明るいものかもしれないし、逆にもっと暗いものかもしれません。グローバルな気候システムを取り巻く不確定性(とそれに対する人類の反応)があまりに大きなものであるため、誰も自信をもって何かを予測することは出来ないのです。わたしは、ただ、気候変動のようなものが、あり得べき未来のひとつであるということを主張するだけです。
 本書を読む上で、前もって哲学に馴れ親しんでいることは想定されていません。ここでは、今までにないやり方で、学部の導入的な政治哲学のコースで伝統的にカバーされてきたトピックの多くを紹介することになります。本書は、想像上の未来の学生たちと同様、読者の皆さんに対しても重要な著作を紹介するように構成されています。しかしながら、既に現代哲学をよく知っている読者にも興味をもって貰えるよう、十分にオリジナルな素材も盛り込むように努めています。第4講、11講、15講の3つの講義は、他の講義と比べると特に思弁的で挑戦的なものとなっています。これらの講義では、富裕代の哲学をダイレクトに壊れた世界に適用してみています。現実のコースでは、これらの講義は、せいぜい任意の読書課題に留まるでしょう。リーディング・リストは、テキストの中で議論されるすべての一次的ソースと精選された二次的ソースを含みます。
 壊れた世界の住人たちは、「富裕(代)」という言葉を、われわれが「中世」とか「古代」とか言うのと同じように使います。それは人類の歴史のなかの一時代である富裕な時代を意味します。「富裕代の哲学者」とは、その時代に存在した、その頃に特有の哲学者を指します。この〔富裕代という〕言葉を選んだのは、それが、われわれの社会とそこでの価値についてもっとも明確なものとして、壊れた世界の人びとの心を捉える言葉だろうと思ったからです。
 壊れた世界を枠づける舞台装置に加え、本書は以下の三つの点で標準的な入門書とは異なった特徴を有しています。最初の二つは実質的なものですが、第一に、標準的な入門書と比べ、本書でははるかに多くのスペースを世代間問題について割いています。本書のなかでも繰り返し述べることとなるように、壊れた未来という亡霊は、この無視された倫理領域の道徳的な重要性を大幅に高めることとなります。つまり、壊れた世界の人びとは、富裕代の思想のこのような側面〔=世代間倫理への関心の希薄さ〕を強調することになります。
 未来の人びとや壊れた世界の舞台設定のためにスペースを割いているので、本書を適切な分量に保つため、標準的な講義で通常期待されるくらいの数の思想家や理論を扱う余裕はありません。本書は網羅的であるよりは、ある種の典型を示すことを目指します。〔思想家や理論を〕取り上げるにあたっての基準は、現代哲学の流派の中で、われわれの富裕代の代表として壊れた世界の人びとの心を捉えるものはどれかという点です。従って、現代の資本主義的なリベラル・デモクラシーの擁護者を、不釣り合いに多く選び出すこととなりました。西洋式のライフスタイルに対して無数に存在するラディカルな批判を脇におくことは奇妙に見えるかもしれませんが、本書での章立ては、富裕代と壊れた世界とのあいだの違いに対してシャープに焦点があてられることになるはずです。さらに、本書は、根本的な変化について多くを語るのではあるけれど、壊れた未来を回避することの出来なかった富裕代に対する内在的批判を基礎としています。このように、それらはわれわれの時代に代表的なものとして思い出されることはないでしょう(富裕代の哲学に関して、もっとバランスのとれた説明をのぞむ読者は、リーディング・リストの中に示唆を見つけることが出来るでしょう)。
 本書の最後の特徴は、叙述の仕方にあります。わたしは、この架空のクラスに出席する学生たちを風変わりな過去の富裕代という時代を回顧する無感動な観察者として描き出しはしません。彼らは、われわれを我執にとらわれた世界の破壊者だと思っているのです。たぶん、奴隷制を敷いていたり異端を焼き殺していたりしていた過去の世代に対してわれわれが抱くのと同じような思いを、彼らはわれわれに対して持っています。このひとたちは怒っているのであって、その感情は時おり、本書のなかにも浸み出してくることとなります。架空の学生や教師たちは、時として非共感的でアンフェアでさえあります。つまるところ、われわれの状況に関する彼らの知識は、非常に不完全なものなのです。再びになりますが、もし誰かが他の人の世界を壊してしまったら、壊された方は壊したひとに共感を期待出来るでしょうか。

(中略)

 富裕代の哲学は、膨大な著作や論文、それらに対するコメンタリーなどを生産したが、今日まで遺されているものは、ほとんど存在しない。富裕代以前の書き手たちは、彼らの思想を木石やパピルス、あるいは紙など耐久性のあるメディアに保存したが、富裕代の人びとは、自らの技術優位性に対する過信のあまり、それら旧式のメディアを打ち棄て、すべてのコンテンツを電子メディアに移しかえたのだった。こうして、富裕代の終焉に先駆けたインターネット崩壊期に、これまで営々と蓄積されてきた人類の叡智は、永久に失われてしまったのである。
 このレクチャーで扱う中心的なテキストは、西大西洋沿岸に海没した都市から最近になって発掘された富裕代哲学の断片―― かの有名なプリンストン古文書群(Princeton Codex)である。本コースでは、毎週このテキストの一部を読み進めてゆくこととする。主要な富裕代の哲学者の書いたものの一節や、それに対して当時書かれたコメントなどである。しかるのち、私の方から、それぞれの哲学的トピックに関する簡単な概括を行うこととしたい。

 

 以下は、目次である。


《目次》

全4部構成(権利論/功利主義/社会契約説/デモクラシー)
前書き、イントロ+17章=全19章

前書き:壊れた世界を想像してみよう【03】
導入レクチャー:富裕代の哲学【16】

第Ⅰ部―― 権利論
第01講:ノージックの権利論【14】
第02講:自己所有【15】
第03講:ロックの但し書き【09】
第04講:壊れた世界のノージック【13】
第05講:ナショナリズム【09】

第Ⅱ部―― 功利主義
第06講:行為功利主義【11】
第07講:規則功利主義【11】
第08講:福利と価値【13】
第09講:ミルの自由論【09】
第10講:功利主義と未来の人びと【11】
第11講:功利主義と壊れた世界【15】

第Ⅲ部―― 社会契約説
第12講:ホッブスとロック【12】
第13講:ロールズ【13】
第14講:ロールズと未来【12】
第15講:壊れた世界のロールズ【13】

第Ⅳ部―― デモクラシー
第16講:デモクラシー【13】
第17講:デモクラシーと未来【10】

 

 以上、熱意ある学生を待っています。