「夜の街」の憲法論・拾遺~ MajiでTrump5秒前

 「Voice』誌に掲載し、その後Webにも転載された拙論「「夜の街」の憲法論――立憲主義の防御のために」、Webへの転載(のちYahooニュースにも転載)に対し、驚くほど大きな反響があった。多くの人びとの共感を得られたようで、書き手としては嬉しい限りだが、一刻も早くコロナ禍が解消され、スナックを始めとする多くの飲食店の皆さんが苦境から脱する日が来ることを祈るばかりである。

shuchi.php.co.jp

 以下では、一般向けの読み物だったので、誌面には掲載し切れなかった書誌情報などを中心に落ち穂拾い。

 

● 先ずは、いわゆる「二重の基準論争」に関わる文献の初出年も含む書誌情報だが、改めてこうして初出年を見ると論争が行われたのは主として1990年代前半であり、もはや30年前の話か、と・・・

井上達夫『法という企て』2003年、東京大学出版会、第6章
→ 初出、「司法部の機能」碧海純一編『現代日本法の特質』放送大学教育振興会、1991年 

 ■ 長谷部恭男『比較不能な価値の迷路[増補新装版]』第7章、2018年
 初出、「それでも基準は二重である!」憲理研編『人権保障と現代国家』敬文堂、1995年 

 

● なお、「営業の自由」に関しては、そもそも経済史学者・岡田与好による、いわゆる「営業の自由」論争というものがあり、それを下敷きとした上で様々な議論がなされているのだが、現時点で憲法学の領域で、この問題に関して最も簡にして要を得たのは、以下の石川論文であろうと思われる。

石川健治「営業の自由とその規制」『憲法の争点』有斐閣、2008 年、148 頁 

 ● 久しぶりに思い出したが、かつてジュリストで樋口陽一井上達夫・岡田与好による以下のような特集があった。今は手元にないので後で読み返してみよう。

■『ジュリスト』1991年5月15日号(No.978)
【特集】〈自由〉の問題状況
 ◇自由をめぐる知的状況――憲法学の側から……樋口陽一
 ◇自由をめぐる知的状況――法哲学の側から……井上達夫
 ◇自由をめぐる知的状況(研究会)……井上達夫/岡田与好/樋口陽一 

www.yuhikaku.co.jp

 


● 人口縮減と超高齢化という不可避の課題とスナックとの話は以下を参照。

www.jiji.com


● Bolet論文の書誌情報:

●「独裁者が恐れるのは・・・」:拙訳『〈起業〉という幻想』の「あとがき」 

  せっかくの機会なので、あとがきの該当箇所をスキャンしたものを以下に貼っておく。

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■ 山羽祥貴「『密』への権利(上)」法律時報2021年5月号

 

福田恆存「伝統にたいする心構え」『保守とは何か』文春文芸文庫、2013年 

 ■ 福田歓一(1983)「権力の諸形態と権力理論」『岩波講座基本法学6:権力』岩波書店

「国内について見ても、たしかに教育や福祉を、今日では権力作用と見る人は多くないかもしれない。けれども、その費用の多くは軍事費や治安対策費と同じく、結局租税として権力的に徴収されているのであって、公共部門の支出が国民総支出の30~40%にも達するのは、現代高度資本主義諸国の通例である。それだからこそ、政府は経済運営の責任を問われる立場にも立つわけであるが、しかし、この高い比率は平時においては前例のないところであり、その意味では公権力の国民生活に対する比重、その作用の範囲と深度は空前の大きさに達したと言って差し支えない。」[福田(1983):4]。

 

● そういえば、今回の原稿を書く際に長谷部の以下の本の中に驚くべき記述を見つけ、「あっ!」となった。ただ、この本は連載時から、一読、イギリス仕込み?の長谷部流ユーモア()が充溢(ニチャァ)しており、それもあって読んでなかったわけでオススメはしません。

■ 長谷部恭男『Interactive憲法有斐閣、2006年 

 

 以下、第3章「「二重の基準論」の妥当性」より

D:一般論として「なるほど」って思っちゃいますけど、たとえば、この二重の基準論に関する井上達夫=長谷部恭男論争なんて、どう理解すれば深まるんですか?
B:私が長谷部門下だって承知の上の振るまい、それ?バイアスがかかると思わないわけ?
D:大丈夫です。あとで井上門下のT先生のとこにもいうつもりですから。
B:解毒剤は用意してるってわけか。まぁいいわ。それで、この論争、何についての論争で、どういう点が論点になってるかぐらいは押さえてるわよね。

・・・「〈類題〉T先生の立場からB助教授の議論に対してコメントを加えよ。」30頁

 

●「二重の基準」論争について友人の学者と話していた際、芦部本とかには余り出てこないよね、という話になったりもしたんだけど、学生時代に読んだコレとかが二重の基準論とかについては一番詳しく書いてて、みんな読んでたんだっけ、とか。 

 

● 余談だが、先日、ふとしたことで「会社の正門で憲法は立ち止まる」という言葉を思い出した。確か佐高信によるものだったけと思ったのだが、、90年代の一時期、奥村宏とか内橋克人とかと法人資本主義批判を展開していたけど、その中の編著の一冊の中で、熊沢の本『民主主義は工場の門前で立ちすくむ』へのオマージュとして(多分)「会社の正門で憲法は立ち止まる」とかいう文章を書いてたと思うんだけど、その本は多分、研究室にある。 

 

● 久しぶりに法人資本主義批判とか思い出したけど、あの頃は、長尾龍一が『現代思想』に登場して、座談会で(相手は関曠野だったっけ)、プラトンがケルゼンが不死の法人が-、とか今にして思えば割と寝言いってて許されるイイ時代だったなあ、とか。本筋に戻るけど、憲法学が営業の自由まわりで大企業にばかり意識を持って行かれて来たのは、こういう背景も長らくあったのではないかな、とかも。 

 

● Voiceの中で憲法学は営業の自由で中小事業者とか全然考えて無くて、大企業ばかりに目を向けてるよねー、というのは、以上のような、これまでの歴史的経緯的には、やむをえないところもあり、先ほど触れた法人資本主義批判みたいなのは、その後も強い残響を残しており、経済的自由の追求=あられもない新自由主義的な方向への暴走!みたいなのが、憲法学者の多くのアタマの中にこびりついてるのもあるんだと思いますね。ま、結局は中小とかは眼中に無いんだけど。

● それにしても日本の文脈での法人資本主義批判で念頭に置かれていた法人(日本の大企業)の近年における凋落を見るにつけ、かつての議論、SF感さえありますね。

● あと蛇足だけど、もちろん違憲審査基準についての現在の議論が「比例原則」とかなのは重々、承知している。小山先生の本とか読んどけばイイんじゃないですかね、よう知らんけど。 

 

 

●  なお、本文中の「友人の学者」は、某K法学者・仮名G太郎先生(50)である。


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