「夜の街」の憲法論・拾遺~ MajiでTrump5秒前
「Voice』誌に掲載し、その後Webにも転載された拙論「「夜の街」の憲法論――立憲主義の防御のために」、Webへの転載(のちYahooニュースにも転載)に対し、驚くほど大きな反響があった。多くの人びとの共感を得られたようで、書き手としては嬉しい限りだが、一刻も早くコロナ禍が解消され、スナックを始めとする多くの飲食店の皆さんが苦境から脱する日が来ることを祈るばかりである。
以下では、一般向けの読み物だったので、誌面には掲載し切れなかった書誌情報などを中心に落ち穂拾い。
● 先ずは、いわゆる「二重の基準論争」に関わる文献の初出年も含む書誌情報だが、改めてこうして初出年を見ると論争が行われたのは主として1990年代前半であり、もはや30年前の話か、と・・・
■ 井上達夫『法という企て』2003年、東京大学出版会、第6章
→ 初出、「司法部の機能」碧海純一編『現代日本法の特質』放送大学教育振興会、1991年
■ 長谷部恭男『比較不能な価値の迷路[増補新装版]』第7章、2018年
初出、「それでも基準は二重である!」憲理研編『人権保障と現代国家』敬文堂、1995年
● なお、「営業の自由」に関しては、そもそも経済史学者・岡田与好による、いわゆる「営業の自由」論争というものがあり、それを下敷きとした上で様々な議論がなされているのだが、現時点で憲法学の領域で、この問題に関して最も簡にして要を得たのは、以下の石川論文であろうと思われる。
■ 石川健治「営業の自由とその規制」『憲法の争点』有斐閣、2008 年、148 頁
● 久しぶりに思い出したが、かつてジュリストで樋口陽一・井上達夫・岡田与好による以下のような特集があった。今は手元にないので後で読み返してみよう。
■『ジュリスト』1991年5月15日号(No.978)
【特集】〈自由〉の問題状況
◇自由をめぐる知的状況――憲法学の側から……樋口陽一
◇自由をめぐる知的状況――法哲学の側から……井上達夫
◇自由をめぐる知的状況(研究会)……井上達夫/岡田与好/樋口陽一
● 人口縮減と超高齢化という不可避の課題とスナックとの話は以下を参照。
● Bolet論文の書誌情報:
●「独裁者が恐れるのは・・・」:拙訳『〈起業〉という幻想』の「あとがき」
せっかくの機会なので、あとがきの該当箇所をスキャンしたものを以下に貼っておく。
■ 山羽祥貴「『密』への権利(上)」法律時報2021年5月号
■ 福田恆存「伝統にたいする心構え」『保守とは何か』文春文芸文庫、2013年
■ 福田歓一(1983)「権力の諸形態と権力理論」『岩波講座基本法学6:権力』岩波書店
「国内について見ても、たしかに教育や福祉を、今日では権力作用と見る人は多くないかもしれない。けれども、その費用の多くは軍事費や治安対策費と同じく、結局租税として権力的に徴収されているのであって、公共部門の支出が国民総支出の30~40%にも達するのは、現代高度資本主義諸国の通例である。それだからこそ、政府は経済運営の責任を問われる立場にも立つわけであるが、しかし、この高い比率は平時においては前例のないところであり、その意味では公権力の国民生活に対する比重、その作用の範囲と深度は空前の大きさに達したと言って差し支えない。」[福田(1983):4]。
● そういえば、今回の原稿を書く際に長谷部の以下の本の中に驚くべき記述を見つけ、「あっ!」となった。ただ、この本は連載時から、一読、イギリス仕込み?の長谷部流ユーモア()が充溢(ニチャァ)しており、それもあって読んでなかったわけでオススメはしません。
■ 長谷部恭男『Interactive憲法』有斐閣、2006年
以下、第3章「「二重の基準論」の妥当性」より
D:一般論として「なるほど」って思っちゃいますけど、たとえば、この二重の基準論に関する井上達夫=長谷部恭男論争なんて、どう理解すれば深まるんですか?
B:私が長谷部門下だって承知の上の振るまい、それ?バイアスがかかると思わないわけ?
D:大丈夫です。あとで井上門下のT先生のとこにもいうつもりですから。
B:解毒剤は用意してるってわけか。まぁいいわ。それで、この論争、何についての論争で、どういう点が論点になってるかぐらいは押さえてるわよね。・・・「〈類題〉T先生の立場からB助教授の議論に対してコメントを加えよ。」30頁
●「二重の基準」論争について友人の学者と話していた際、芦部本とかには余り出てこないよね、という話になったりもしたんだけど、学生時代に読んだコレとかが二重の基準論とかについては一番詳しく書いてて、みんな読んでたんだっけ、とか。
● 余談だが、先日、ふとしたことで「会社の正門で憲法は立ち止まる」という言葉を思い出した。確か佐高信によるものだったけと思ったのだが、、90年代の一時期、奥村宏とか内橋克人とかと法人資本主義批判を展開していたけど、その中の編著の一冊の中で、熊沢の本『民主主義は工場の門前で立ちすくむ』へのオマージュとして(多分)「会社の正門で憲法は立ち止まる」とかいう文章を書いてたと思うんだけど、その本は多分、研究室にある。
● 久しぶりに法人資本主義批判とか思い出したけど、あの頃は、長尾龍一が『現代思想』に登場して、座談会で(相手は関曠野だったっけ)、プラトンがケルゼンが不死の法人が-、とか今にして思えば割と寝言いってて許されるイイ時代だったなあ、とか。本筋に戻るけど、憲法学が営業の自由まわりで大企業にばかり意識を持って行かれて来たのは、こういう背景も長らくあったのではないかな、とかも。
● Voiceの中で憲法学は営業の自由で中小事業者とか全然考えて無くて、大企業ばかりに目を向けてるよねー、というのは、以上のような、これまでの歴史的経緯的には、やむをえないところもあり、先ほど触れた法人資本主義批判みたいなのは、その後も強い残響を残しており、経済的自由の追求=あられもない新自由主義的な方向への暴走!みたいなのが、憲法学者の多くのアタマの中にこびりついてるのもあるんだと思いますね。ま、結局は中小とかは眼中に無いんだけど。
● それにしても日本の文脈での法人資本主義批判で念頭に置かれていた法人(日本の大企業)の近年における凋落を見るにつけ、かつての議論、SF感さえありますね。
● あと蛇足だけど、もちろん違憲審査基準についての現在の議論が「比例原則」とかなのは重々、承知している。小山先生の本とか読んどけばイイんじゃないですかね、よう知らんけど。
● なお、本文中の「友人の学者」は、某K法学者・仮名G太郎先生(50)である。
2人の出郷者--永山則夫と菅義偉
最近一部で話題の、放送大学ラジオ講座「人間にとって貧困とは何か」(西澤晃彦・神戸大)、「西澤先生の声が良すぎて異様な説得力が~」というやつなんだけど(井出明先生から教えていただきました)、第2回で取り上げられている見田宗介『まなざしの地獄』を研究室から発掘して久しぶりに読んでしまいました。
久しぶりに読んで「あっ!!!」となったんだけど、この本(というか論文)の主人公である「N.N.」こと永山則夫、1949年に青森県板柳町出身(生まれは網走)。菅義偉も考えてみれば1年違いの1948年生まれの集団就職世代なんですよね・・・。かたや連続殺人犯・死刑囚(永山)、かたや現内閣総理大臣、同じように同じ時期に出郷して東京の風景を見ていたのか、と、しばし考え込んでしまいました。
永山則夫が連続射殺事件を起こした瞬間って、スガちゃんの人生の中で段ボール工場を辞めてから法政に入るまでのわりと謎の期間なんですよね、ちょうど。当時の東京で漂っていた無名のスガ青年は、永山の事件を見て何を思ったんでしょう。あるいは『無知の涙』を読んだりしたのでしょうか。
1968年の東京のどこかで、この2人、あるいはすれ違っていたのかもしれないなと思うと想像が膨らみます(北野武監督で映画化したら?)。
ちなみに冒頭のラジオ講座、以下から聴けます。10月20日までの公開なので、あと数日ですが、どうぞ。異様な説得力のある声!冒頭の写経の話、笑います。
憲法記念日の奇習
毎年恒例の「憲法記念日にコンビニで全紙を買って来て読んでみる」を今年もやってみました。
下のほうに2019年と2018年の時の記録も参考までに付しておきますが、まさか今年の憲法記念日がこんなことになるとはね、という。2019年に書いたように、もうこの奇習もやめようかと思っていたのですが、コロナ禍のこんな時だからこそ、いつも同じことを意識的に継続しようということで、今年もやってみます。
各紙、登場する識者をメモ代わりに記録してありますが、全体としてコロナ禍に呑み込まれてしまっている印象が強く、「憲法記念日だからということで惰性でやっている特集ですね」というのが総括的な感想ですかね。
左派系の各紙はアタマから緊急事態条項については否定し、「公共の福祉」などで対応可能という論調ですが、この辺りのことを真面目に議論すべきではないか、と思いました。個人的には、数個の記事以外はほぼ読む意味が無かったです。
なお、どうでもイイことですが、首都大・都立大の同僚・元同僚・OBが4人登場しております。
【朝日新聞】
緊急事態条項について曽我部真裕(京大・憲法)、世論調査について境家史郎(東大・政治学)、その他テレビ欄裏面に南野森(九大・憲法)、志田陽子(武蔵野美術大・憲法)。全体として、コロナ禍に乗じた改憲の動き(含む緊急事態条項)への牽制。「緊急事態条項、憎し!」ですか、そうですか、以外の感想は無し。
【毎日新聞】
百地章(国士舘特任・憲法)と高見勝利(北大名誉教授・憲法)と左右のバランシング?その他、緊急事態条項の不要性について木村草太(都立大・憲法)。朝日と同じで内容が薄まっている下位互換。
【東京新聞】
紙面上、学者として登場するのは宇野重規(東大・政治学)のみ。しかもコロナ関係で憲法とは関係なし。やる気ない感じ。
【読売新聞】
上田健介(近畿大・憲法)と笠原秀彦(慶応・皇室制度論)がメイン。各党座談会に学者としては1人だけ宍戸常寿(東大・憲法)が参加。全体として憲法論議の活性化の呼びかけ。憲法ではなくコロナ関係ではあるが、1面に御厨貴(東大名誉教授・政治学)。一番充実していたが、しかし、それでも今の時期に憲法問題を論じること、どうしても白けるよね、というのは拭えず。
【産経新聞】
社説で緊急事態条項の必要性と力説するも、識者は一切登場せず。そもそも頁数が異様に少なく夕刊かと思ってしまった(大丈夫か?いや大丈夫じゃないんだけど・・・)。「息してる!?」以外の感想なし。
今年も日経新聞は入手出来なかったのですが、まあ、そゆことで。
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2019年5月4日
毎年恒例の憲法記念日に全紙買ってきて眺めてみる奇習を今年もやりましたが、全体としては、2015年の安保騒動の時を頂点に議論的には低調傾向の持続という印象でしょうか。
それにしても、紙の新聞、ホントに毎年この日しか手に取ることがなく、古代文明の遺物みがあります。
日経だけは近所のコンビニに行った時間が遅かったので売り切れてしまっており、電子版を講読している知人に内容を教えて貰ったのですが、朝日・読売・毎日・産経・東京を買いました。
平成から令和への代替わりが直近だったこともあり、ここ数年では珍しく「天皇(制)」に関する言及が多かったのが、今年の一番の特徴でしょうか。あとは、2紙でAIへの言及があった(片山・山本)のも最近の潮流なのかな、とも。
学者が顕名・写真つきで登場しているのは、朝日=井上達夫(法哲学)・樋口陽一(憲法)、読売=山元一(憲法)・君塚直隆(イギリス政治外交史)・棟居快行(憲法)。産経=百地章(憲法)・渡辺利夫(久しぶりに見た!いちおう経済学?)。毎日=片山杜秀(政治思想史?)・佐々木弘通(憲法)。東京=長谷部恭男(憲法)vs. 萱野稔人(哲学?)、日経=青井未帆(憲法)、山本龍一(憲法)、江藤祥平(憲法)という感じでした。
いちおう少なくとも上記の学者のやつだけは全て読んでみましたが、認知的利得がほぼゼロで、樋口陽一の記事は紙面の4分の3も使ってて巨大だな、というのと、井上達夫の話はこれまでと同じことを言っているので新味はないが、天皇の話は、ありきたりながらル=グインの「オメラスを立ち去る人びと」だよね、とか、読後に持った感想らしきものは、それくらいでした。
この奇習も、そろそろ止め時かもしれません。
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2018年5月3日
今日は憲法記念日なので、毎年恒例の全紙買って読んでみよう、をやってみました。朝日、読売、日経、毎日、東京、産経新聞の6紙。私は何年か前に紙の新聞を取るのをやめてしまったので、年に一回だけの紙の新聞を読む日で、ちょっと新鮮な気持ちも。
まだきちんとは読んでいませんが、全体としてはやや議論が低調なのかな、という印象を受けました。一番頑張ってる?のは毎日かな、という感じも。
写真つきで登場している学者は、京大の曽我部真裕さんが朝日と日経に出ていたのが目についた以外は、毎日の青井未帆、棟居快行、宮城大蔵×中島岳の対談、朝日の片山杜秀×林知更の対談、駒村圭吾、産経の田久保忠兵衛の各氏くらいで、ここ例年の常連?の姿が余り見えない感じもしました。林さんがこういう形で出てるのは、ちょっと驚きましたが。
第1回拾遺:面白うて、やがて神聖なる喜劇
白水社サイトでの連載本体(元記事)は、こちら。
今回のメインは、以下。 単行本版の刊行後の出来事についてもフォローして追記が行われており、また解説も素晴らしいので、単行本を既に持っているひとも是非。
畠山の取材(生活)について。
冒頭に挙げた大西巨人の随筆が掲載されているもの。
言わずもがなの『神聖喜劇』(全5巻)。 繰り返し読むに値する傑作です。
漫画もある。
ウェブ上で読める畠山の書いたものとして、まずは昨年(2019年)の統一地方選中に日刊ゲンダイに連載された以下などを参照されたい。NHKから国民を守る党(N国党)について、まとまった形できちんと書かれた現時点では唯一のものではないかと思われる。
→ https://www.nikkan-gendai.com/articles/columns/3685
現在連載続行中のものとしては、「よみタイ」で連載中の「アラフォーからの選挙漫遊記」(隔週・月9配信)。2020年1月24日時点で第5回目。
なお、地方議会(議員)の現状について最も整理され興味深い議論を展開しているものとしては、以下を参照されたい。
■ 公益財団法人・明るい選挙推進協会、提供データ
http://www.akaruisenkyo.or.jp/tokusetsu/2019touitsu/votingrate/
最後に少しだけ選挙にまつわる個人的な話を。わたし自身は、大分県別府市の出身であり、つまり以下のような来歴を持っている。
子どもの頃から身近に選挙を見聞きし、成人以降、東京に出て来てからも多くの選挙に色々な形で関わって来たが、選挙がらみで唯一したことのないのが「立候補」である。私は自分のいまの仕事を「天職」だと思っているので、今後も被選挙権を行使することは恐らく無いだろうとは思うのだが・・・。
なお、畠山の『黙殺』と深いところで通底するテーマの流れるものとして、以下の砂原によるものも、この際あらためてオススメしておく。
さしあたり今回は、以上。
第0回拾遺:Merentem laudare justitia est.
白水社サイトでの連載本体は、こちら
→ https://webfrance.hakusuisha.co.jp/posts/3085
・・・というわけで「哲学者の朝の祈りはノンフィクションを読むことである」と題した連載を始めたわけだが、白水社サイトの連載本体にも記した通り、今後おおむね1ヶ月に1本くらを目安に書いてゆきたいと思う。
ここでは、いちおう「ノンフィクション」を主たる対象とするつもりだが、適宜、それ以外の書籍も混ぜ込んでゆくことになるかと思う。連載中にいつか触れることになるだろうが、「何がノンフィクションなのか?」ということ自体が、ひとつの問題でもあるので。
連載で言及される書籍については、メインの対象以外にも複数のものに触れる場合もあるので、白水社サイトの方での掲載作業の煩雑を避け、また、比較的自由な補足も行いやすいよう、毎回、こちらの個人ブログの方から書籍へのリンクなどを貼ることにしたい。
なお、連載タイトルにしたヘーゲルの言葉については、既に本ブログの下記のエントリーで触れているので、参考までに。
世界史へ接続せよ/安田峰俊『八九六四』
本書は今を遡ること29年前の今日、1989年の6月4日(八九六四)に起きた天安門事件をめぐるものである。
本の中でも描かれている通り、この日の前後には、スマホ決済で「六四」元や「八九六四」元の金額指定が不可能になるほどで、現在でも中国政府は躍起になって事件の痕跡を隠そうとしている。乗数(=8の2乗)が64になってしまうので「八八」元でもダメという話さえある・・・。習近平体制下での強力な統制の進展を見る限り、このような形での取材は以下の筆者の言葉にもある通り、本書が最後のものとなるかもしれない。
「本書の登場人物のうち、中国国内に住む人の大部分は、これら(中国の監視社会化)が本格的に進行する以前の2015年の夏ごろまでに取材を終えた、今後、同様の取材を行うのは困難だろう。この本は取材が成立し得るギリギリ最後の時期に、滑り込みセーフで書けたのである。」(299)
※ 以下、丸括弧内の数字は本書該当頁を示す。
ちょうど去年の六四に以下のような投稿があったが、これが実情であり、今年、事態はさらに悪化しているかもしれない。
本日、中国でアップされた一枚の写真だ。知っている人は知っているが、歴史上では決して忘れてはいけない日なのに、しかし、この表現は中国国内に限って、もう精いっぱいなのかもしれない。 pic.twitter.com/uEs4JwfjDa
— 毛丹青 (@maodanqing) June 4, 2016
何らかの形でこの事件と関わり合いを持つ六〇人以上のひとびとに対面取材した本書は、これまで出されたおびただしい数の天安門事件本とは大いに趣を異にするものである。
著者はtwitterで本書について「意識低い系」の天安門本だと冗談めかして言っていたが、本書の中では、意識高く士大夫/知識人として祖国中国を思い天安門へと身を投じたというような話だけではない、余りにも人間臭い物語が織りなされてゆく。
天安門世代の中国人に話を聞きまくった新刊『八九六四』 https://t.co/UZNk7Au2NM 5/18刊。「意識の低い天安門」を真面目に書いた本ですが、まともなジャーナリズムのフリをしています。
— 安田峰俊|『八九六四』好評御礼|日本亲党亲华中日友好80后革命前卫 (@YSD0118) April 12, 2018
なお、大人の事情につき今後の当アカウントは習主席と社会主義核心価値観の宣伝アカとなりました。习主席万岁! pic.twitter.com/tZDITkGAxB
彼らを描き出す筆致は、何事をも断罪することのない取材対象への細やかな愛情に満ちたものとなっている(これぞ安田ワールド)。あれから三〇年近くの時を経て、家族を持ち、或いは子どもを持った取材対象たちの心の機微には、ひととして感じ入らざるを得ないものがあるだろう、人生は複雑なのである。
冒頭に記した「時の権力者による史実の隠蔽や改竄をよしとしない」ような《高い志》は、長い中国の歴史の中では繰り返し現れて来るモチーフで、滅びた南宋への忠義を貫き通し、侵略者・元のクビライからも才を惜しまれつつ刑死した文天祥の「正気の歌」などにその極致を見ることが出来るだろう。しかし、ひとが皆、文天祥になることはないのである。
歴史の巨大なうねりに正対した時の、人間的--あまりにも人間的な物語たちが本書には横溢している。
本書の副題は「天安門事件は再び起きるか」である。この先に待っているのが、命懸けで権力者の悪行を史書に記し遺そうとした「太史の簡」も「董狐の筆」も現れない完成したデジタル・レーニン主義による素晴らしき新世界なのか、あるいは歴代王朝に幕を引いてきた大盗賊たちによる農民起義なのか。黄昏どきに飛び立つフクロウのみが知るところである。
以上、『週刊現代』2018年6月4日号に掲載された拙書評に大幅な改変と拡充を施したものである。一般向けの週刊誌で書くワケにはゆかないアレな文飾をフルに施しており、発売中の該当誌の書評と読み比べると掲載限界線が分かって面白い(?)かもしれない。書評末尾は紙幅の関係上、《両極端な未来》にしか言及していないが、もちろん、そうでない、何らかの形で、中国にとっても日本を含む諸外国にとってもハッピーな未来もありうるだろうし、正味の話そうであってくれなければ困るのではあるが・・・。
以下では、本書の備忘を断片的に記し留めておく。
● 「当時、北京の市民は直近の一〇〇年間だけでも、義和団事件・辛亥革命・民国期の軍閥内戦・日中戦争・国共内戦・文化大革命--と、十数年に一度以上のペースで大規模な動乱を経験していた。」(69)→ 以下、年表?化。
1899~1901年:義和団事件
1911~1912年:辛亥革命
1927~1937年:民国期の軍閥内戦(第一次国共内戦)
1931~1946年:日中戦争
1945~1949年:国共内戦
1966~1976年:文化大革命
1976年:第一次天安門事件
1989年:第二次天安門事件
● 1990年ごろ近所にできたばかりのKFCの話(75)→ 私もほぼ同じ時期に行ったので、本当に懐かしい。再開発前の王府井の店だった。
●「士庶の別」、「士大夫と一般庶民」(95)
● 1991年8月19日。ゴルバチョフ軟禁、市民の抵抗でクーデター失敗。ソ連共産党は事実上の解体。あんなに強かったソ連がボロボロになって、エリツィンみたいな酔っ払い野郎がトップになった。旧西ドイツ人はめちゃくちゃに見下されていた。だから天安門事件は仕方なかった(104-)
● 姜野飛(涙)、マー運転手・・・(147)
● ネットで真実を知る=「有思想(ヨウスーシャン)」(150)
● 「インテリが主導する革命は必ず失敗する」(185)
秀才造反、三年不就
戊戌変法、辛亥革命
庶民のドロドロしたルサンチマン、毛沢東=農民叛乱型の権力奪取だけが成功
● 凌静思「白鳥はかなしからずや空の青」(188)→ この仮名がまた・・・
●「いや待って。いま私があなたと喋っているのは普通話ではなく『台湾の国語』です。香港人と日本人が、中華圏の第三国の言葉でコミュニケーションを取っているだけ。お互いにこういう理解で手を打ちませんか。」(221)
●「自分の家の問題は解決できなかったが、よその家の問題を解決していた」(269)
最後に個人的な話を。
中学の時だったと思うが、わたしの通っていた学校(大分県)では英語合宿というものがあり、数日間そこで英語漬けにされるのだが、九州近県の大学から留学生が何人か「先生役」的に招聘され参加していた。そこに来ていた清華大学からの留学生(九大に来ていたと思う)と仲良くなり、その後も(英語で)文通をしていたのだが、八九六四に前後して彼との通信は途切れた。
八九六四の時、テレビで北京の上空をヘリが飛び交い、大通りを戦車が隊列を組んで走るのを見ながら、わたしは彼のことを考えていた。八九六四はわたしにとっては自分自身が身近な感覚を伴って、初めて世界史に強制的に接続された瞬間だったのである。
その後、1993年3月にわたしは初めて北京へ行き、天安門広場を訪れた。広場に行った日は、ちょうど八大元老の一人であった王震が死んだ翌日で、広場は厳戒態勢になっていた。広大な無人の広場に等間隔に警官(兵士だったかもしれない)が立つ光景を、今でもよく覚えている。
補記:上掲書を読んで、以下の本も思いだしたが、正直なところ、わたしは文天祥よりも馮道のほうに人間的魅力を感じる(以前、大屋雄裕さんが、この本を教えてくれた)。ただ、現代の中国にも、この馮道のような人物は居るのだろうか、もし居るとしたら今現在、何をしているのだろうかということも考えてしまうのではあるが。
補記2:上記アップ後、「ところで、馮道いますよ! そいつ、周恩来とか温家宝とか王岐山とか王滬寧とかいうんですけどね。」という悪いことを言ってきた友人が居たのであった・・・。
以上。
島田英明『歴史と永遠』
わがゼミの卒業生でもある島田英明さんの単著『歴史と永遠 江戸後期の思想水脈』(岩波書店)をご恵贈頂きました。ひとりの教師として感無量です。
上記、「で“も”ある」と記した通り、日本政治思想史を専門とする島田さんの首都大での本籍は河野有理先生のゼミでありまして、その後、東京大学大学院法学政治学研究科で苅部直先生の薫陶を受け、このたび博士論文をもとにした本書の上梓に至られました。
島田さんは私にとっても実に思い出深い卒業生のひとりで、在学中から飛び抜けて優れていたのを今でもよく覚えています(実際、極めて優等な成績で本学を卒業されました)。
彼に関して、わたしが記憶しているエピソードは2つあり、1つは河野先生の講義のレポートで、出来が余りに良すぎるので剽窃ではないかとさえ疑われたものの、実際に自分で書いたものとすぐに分かったという話。
それから、2つめは、私のゼミで当時、安藤馨さんの『統治と功利』を読んでいたところ、ゼミ合宿で安藤さんご本人をお呼びし、島田さんに『統治と功利』の報告をしてもらったら、あの安藤さんが「彼は本当に優れていてビックリですね」と激賞頂いたことでした。
栴檀は双葉よりとか、出藍のなどと言うまでもなく、実に教師冥利に尽きる存在が、島田さんと今回のこの本でありまして、あとがきも読んで、学生時代の彼の知的世界の形成にいくばくかなりとも痕跡を残せたのが、後世、私の学者人生の中で最も大きな意義のあることだった、とならぬよう、わたし自身も奮起しなければならないな、と思った春の昼下がりでした。
内容の詳細(目次など)は以下から見れますので、是非お手に取って頂ければ幸いです。
島田さんは1987年生まれですから現時点で31歳なわけですが、この本のもととなった博士論文は、その20代最後の日々に書かれたものなわけで、弱冠30にもならないほどの人間が、このようなものを書けるのかと戦慄されたく。
https://www.iwanami.co.jp/book/b352575.html
※ 先ほど落掌したばかりなので、またゆっくりと読んでから内容についての感想なども追記したいと思います。
フジプライムニュース(2017年6月13日)
『護憲派・改憲派が激論 憲法9条と自衛隊明記』と題し、石川健治(憲法)・百地章(憲法)・井上達夫(法哲学)が出演。
憲法学者・石川健治の所説が余りにも強い印象を残したので、以下、書き留めておく。なお、井上達夫の議論は、いつも通りの平常運転なので特記すべき点はない。百地は初めて話しているのを見たが、主張内容の当否はともかくとして、ひとつの立場として筋は通っているし、紳士的で誠実な印象さえ受けた。
プライムニュース最新 2017年6月13日 井上達夫氏 20170613
以下、石川健治の発言より特に印象に残った点のみ。
2.今日の平和は、9条ではなく自衛隊・駐留米軍のおかげである。
3.解釈論としては、自衛隊は違憲であり、違憲の烙印を押し続けなければならない。憲法学者は法哲学者とは違い、職業的責任から専門知の観点のみから解釈論は行い得るが、それを超えた憲法改正の是非については語れない。
雑感。3は石川が「政治論」と「憲法(解釈)論」を峻別した上での主張だが、彼がこれまで新聞紙上その他で展開してきた様々な議論との整合性如何?また、自衛隊に違憲の烙印を押し続けながら、2であると言うのは如何?氏こそが、1のような存在なのでは?
憲法学者、特に護憲派がこれまで如何に「内輪だけの議論」をしてきたのかが、露わになった瞬間だった。自衛官やその家族を目の前にしても、同じことを言えるのだろうか?
石川が言うように憲法がどうで「ある」かのみについて関心を持ち、それがどうである「べき」かには関わらないという《純学知》的立場というのは、あっても良いと思うし、私もそのような立場は尊重する。しかし、石川の「立場」は、上述の通り論理的に崩壊しており、特に自衛隊に対する無責任さ、それに対する卑劣なただ乗りの極限的形態が露呈している。恥を知らねばならない。
井上達夫の「安全保障をめぐる論議が憲法解釈論に話がすり替わってしまって話が進まない」という話は、まったくもってその通りであると思った次第。
これまで恐らく四面楚歌で孤軍奮闘して来たであろう百地のほうが議論慣れしていて、きちんと建設的な議論をしようとしているようにさえ見えた。
憲法学者たちにひと欠片でも廉恥の心があるのなら、石川のような議論は積極的に排撃されるべきである。
Nスペ:変貌するPKO 現場からの報告
『自衛隊のリアル』の著者、瀧野隆浩さんが強く薦めていた番組だったので観たが、観ていて比喩ではなく胸の苦しくなる番組だった。以下、備忘を兼ねてメモ。
南スーダンの首都ジュバにPKOとして派遣された自衛隊の知られざる記録。当初、新国家建設のために道路付設などで貢献していた自衛隊だったが、途中から政府軍 vs 反政府軍の間の内乱に巻き込まれ、あげくの果てには宿営地を挟んで政府/反政府軍が対峙し(発砲・砲撃し合い)、あわや犠牲者が出るところだった、という話。隊員がその時とっさに手帳に記した遺書が生々しかった。
「専守防衛」(一発撃たれてからしか一発撃たない)を旨とする自衛隊が出向いてゆくべき場所だったのか?という隊員の問いかけ。
上記の事件の際、自衛隊の宿営地に隣接したトコにいた中国軍は2人犠牲者を出している。中国は、そのことをテレビ?で流している。中国のほうが情報公開している??
オランダのPKO。国防予算を使い、人的犠牲も払うことに対し、何故わざわざ遠く離れたアフリカでそんなことをする必要が?という批判も。そのため、オランダ政府はPKOの情報を完全に公開し、国民の議論を喚起しようとしている。オランダ軍将校の「PKO(平和維持)と言いながら、そこには維持すべき平和は無かった」とのこと。オランダの政府関係者の会合での議論で「アフリカのならず者ども達のために何故、我々がこんなに苦労しなければならないのか」という趣旨の発言があったのも印象に残った。
以下、雑感。9条および関連法規の下で自衛隊をこのようなPKOに出すのは非人道的では?出すなら9条改正(2項削除+「自衛隊=軍」として明記+76条改正=軍事裁判所設置)をすべきだし、でなければ出さないべきでは?
憲法の国際協調主義に即し、国際的責任を果たすためにPKOに派遣しているワケだが、コレが本当にやらなければならないものなのか、疑問無しとしない。
ちょうど以下のような記事も。
また、下記のようなものも見つけて読んだ。
上記に関しては、国立国会図書館の『レファレンス』 に以下のような論文も。
■「防衛省・自衛隊のメンタルヘルス対策」NDL『レファレンス』
猿の軍団/indigo
突然思いだして何だったっけ?となるものの記憶の外化。私にだけ関係あることなので、ひっそり更新。
この「猿のぐんだ~ん♪」と「猿だっ、猿だっ、さぁーるーだー♪」という下りが時々、突然アタマの中に降りて来て、コレなんだっけ??となるんだよな。
改めて調べてみたら以下の通り。
『SFドラマ 猿の軍団』(エスエフドラマ さるのぐんだん)は、1974年10月6日から1975年3月30日までTBS系で毎週日曜日19:30 - 20:00に全26話が放送された、円谷プロダクション製作のSF特撮テレビ番組。
私が一歳~二歳の間に放映されてるんで(しかも当時は未だビデオ無いのでは?)、まず観てないんだけど、この曲だけは覚えている。家族で車でドライブしている時とかに掛かっていたと思うんだよね。
家族でドライブしていた時になにげなく流れていた曲というのは本当に良く覚えているもので、以下のものなども、それ。
INDIGO(1985年2月25日発売):Rainbow signal / 恋愛狂時代 / Boy friend / シャンペンと地動説 / Milky way / 星化粧ハレー / Bloomin' blue / 恋のDouble fault / デミアン / 雨のSentosa / 星/導/夜
この中に入っている曲で一番有名なのは、間違い無く当時カネボウの化粧品のCMに使われた「星化粧ハレー」なんだけど、十一歳の時のものか。東京に出て来てから随分長い間、忘れていたんだけど、四十歳近い或る日、突然アタマの中でこのアルバムの曲が鳴り響き、Hi-Fi set の曲ということだけは覚えていたので検索し、AmazonでCDを買った。
聴いたら、二十年以上前が奔流のように甦ったような気さえしましたね、ええ。ただ、このアルバム、マイナー過ぎてカラオケにはほとんど入っていない。まあ、デンモクにあったとしても、ちょっと難しすぎて歌えないのではあるが。どれも歌詞がブッチぎれていて本当に好き。好天からにわかにかき曇り風が強くなると「雨のsentosa」がアタマの中で鳴り響きます。
以上。