朝日新聞「耕論」補遺

 本日の朝日新聞朝刊「耕論」欄でインタビュー記事を掲載して頂きました。以下、わたし自身の備忘も兼ねて少し今回の取材の経緯に関する話などを記し留めておきます。

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 3月16日に「壁をつくる」(仮題)というテーマで話を伺いたいという取材依頼がメールで来ました。メールに記された取材モチーフは以下の通り。

トランプがメキシコとの国境に壁をつくると言っているが、壁に囲まれた「ゲーテッド・コミュニティ」が珍しくないアメリカでは「壁をつくって遮断する」という発想は、それほど突飛なものではないのでしょうか?

 その上で以下の3点について話を法哲学者としての視点から話を聞きたいということでした。

● そもそも「壁をつくる」という発想は、どのような政治思想から来ているのか。
●「ゲーテッド・コミュニティ」やショッピングモールと「トランプの壁」は通底しているのか。
● 欧州や日本でも制度的・文化的に「壁をつくる」動きが目立つが、それをどう考えるか

 記者の方は、以前私が『アステイオン』に書いた「郊外の多文化主義」と私自身の著作『ショッピングモールの法哲学』も読まれた上で取材依頼をされているとのことで、とても良く準備されており、依頼の時点で好感を持ち、即答で取材を快諾しました。

 記事の最初がいきなり「ゲーテッド・コミュニティ」の話から始まって面食らった人もいるのではないかと思いますが、以上のような経緯があった上で、こういう話の構成になったわけです。

 インタビューは3月30日に1時間ほど喫茶店で受けたのですが、記者の方との話も弾み、改めて好感を持ちました。「朝日新聞的にはマズイ話なのでは?」と幾つかの話題については、むしろ私の方が心配したくらいだったのですが、「耕論」はむしろそういう「朝日的」なものとは異なった意見を出すのが目的のコーナーなので問題ないとのことで、実際の記事も、話したことが、ほぼそのまま載っています。なお、取材の際にはA4で2頁くらいのメモを作成しておき、固有名詞などについて取材側の負担が軽減出来るよう、取材後、そのメモをそのまま記者の方に渡しました。

 一点のみ、「アイデンティティ」や「社会的承認」について使われている「抽象的」という表現は私自身の言葉ではなく記者の方によるものですが、一読した際には、変えようかと思ったものの、それらに対して批判的な(たとえばトランプを支持するような)多くの人びとにとっては、そう見えるだろうと思い、そのままにしました。

 4月3日に記事になる前の原稿をチェックさせてくれましたが、1時間に及んだ多岐にわたる話を大変適切かつコンパクトにまとめられており、また、一丁字も直すところがなかったので、そのままOKしました。大変優秀な記者の方で、とても気持ち良く仕事をさせて頂きました。

 今回の話は、読んで激昂するひとも結構いるだろうなと思っており、ある種の挑発をしている自覚は十分にあります。というか確信犯的な挑発です。以下ではナショナリズム云々の話を少しだけ敷衍しておきます。

 東アジア情勢の急激な不安定化をはじめとする国際環境の激変の中、わが国は安全保障に関して本当の意味で生産的な議論を始めるのに待ったなしの状況に突入しており、その点、今回の記事はそういう議論のキッカケとして、「えぃやぁ」と思い切って打って出たものというのが真率なところです。現在、朝鮮半島で進行中の諸々を見れば、この事実認識の是非に関して、議論の余地はないでしょう。

 記事には出ませんでしたが(今回の取材目的からは当然なのですが)、取材当日、記者の方にも話した通り、日本の左派だけでなく右派もまた、ナショナルなものと真っ正面から向き合い、《現実的》な議論を開始せざるを得ない状況の中に《既に》放り込まれていることを強く自覚すべきです。

 また取材に際しては、記事で取り上げられているような現在進行中の諸現象について「ポピュリズム」という言葉を使うこと自体をやめるべきだ、という話も再三しました(そして掲載された記事にこの言葉が登場しなかったのは、実に遂行的に正しいと少し笑いましたが)。この言葉は、「本当の正解は別に確固として存在するのに、敢えて間違った選択肢を選ぶ大衆」という含みを持つもので、単に不適切であるのみならず有害なタームでさえあるからです。それは「俺たちだけは本当の正解を知っている」と思い込んでいるエリート(含自称)たちの傲りでしかありません。記事の内容の繰り返しになりますが、現在の事態は、ポピュリズムではなく正しく国民国家の再構築=ナショナリズムの問題として捉えられるべき事柄なのです。

 2015年の初夏にあった集団的自衛権をめぐる騒動の中、わたしは色々な局面で、上記のような意味でのエリートたちの言説に唖然・憤然としていましたが、この記事の中で言及されている国境管理(移民・難民政策)やナショナルなものと安全保障の問題が不即不離であるという事実は、残念ながら、わが国においても、そう遠からず(或いは近日中に)白日の下に晒されることになるでしょう(反面、そうならないことを心から祈るのではありますが・・・)。この点において、憲法九条の改正若しくは削除は、もはや当然の前提であり、全ての出発点は、そこからです。私の知る多くの優れた研究者たちが、このような前提を共有した上で、今後、活発かつ建設的な議論を行うことを心から期待します。

(・・・と書いて数時間経ったところで、アメリカがシリアにトマホークを50発撃ち込んだという速報が。)

 今年は、わたし自身、ゼミでも「安全保障の法哲学」というお題で、このことに取り組む予定であり、また、遠からず(今年の早い時期に)まとまった書き物の中で、上記では言いっ放しになっている「当然の前提」についての十全な敷衍を行いたいとも考えているところです。

 本日、米中首脳会談、初日。韓国大統領選の結果が出るまでの今後1ヶ月の間、我々は重大な運命の岐路に立たされることとなりますが、速やかに《まとも》な議論が始まることを希望し、本稿を閉じます。

 

(補遺の追記)

 以下、早速頂いた幾つかの反応へのご回答。

冒頭の「無思想性」が一番分からないところで、それこそ正しい意味での「反知性主義」という思想なのでは?と思うところですが、問題はポピュリズムではなくてナショナリズムなのだというご議論はそうだろうなと。

 この点は仰る通り。実は取材の時には、反知性主義の話からポピュリズムの話も一通りしたんですが、そこがごっそり削られています。ただ、紙幅上やむをえないかなと了承しました。経緯として、記者のほうでゲイテッド・コミュニティ=壁!というのが初発にあり、それありきからの展開なんで、こういうことになっておるわけです。取材受けて記事にされるのの難しさも感じましたが、まあ、やむを得ないかな、と。ただ、反知性主義ってリバタリアニズムとかと同様に何か実質的内容を持った「思想」なのかな、というと、そういう意味での思想じゃないかというのもあり、これでよし、とした次第。

バークレーが「小さな壁」の中にあるのか、なかなか理解が至らないところもありますが、米国社会が抱える2つの側面は実感するところです。

  おっしゃる通りで、アメリカ全域が gated community化してるというワケじゃないんですが、ひとつの象徴的事例ということで(カリフォルニアとか日本よりもデカいよねという)。取材経緯も含めて、こういう構成になった理由については上記、ご参照の通りです。

多文化主義の失敗が背景」という見出しはミスリードでは?

 見出し文は私の方では決められないので、まあご寛恕のほどを。

 トランプの勝利について、Hillbillyなどに象徴されるラストベルトの怒れる「忘れられた人びと」がフォーカスされているが、実は全投票行動の中では negligible な数字なのではないか?実は今回の選挙で動いた「山」は上記のような人びとではなく、共和党の伝統的な支持層だったのでは?

 今回の記事が出た当日に催された某研究会で或る政治学者の先生から伺った意見ですが、なるほどと思いました。その際聞いた、ヒラリーはとにかく「しつこい」と思われていたという話も印象的でした。最初の大統領選の時で諦めるべきだったのであり、その後、未練たらしく長年エスタブリッシュメントとしての地位を固守しつつも結局何もしなかったのが、今般の選挙で出て来ても「しつこい」としか思われないと。まあ、オバマで一気に歴史が動いたので、もはや初の女性大統領はヒラリーじゃなくてもイイよね、とかも。