2013年度後期のゼミ告知

 夏期休暇期間も残り3週間を切ったので、後期のゼミに関する告知を行っておく。前期とは分離された2単位半期のゼミである。テキストは、下記の通り Mulgan の著作(下記のAmazonのリンクはハードカバー版で高いが、廉価なペーパーバック版もある)。この本は私の単独訳で多分2014年頃には翻訳が刊行される予定。

Ethics for a Broken World: Imagining Philosophy After Catastrophe

Ethics for a Broken World: Imagining Philosophy After Catastrophe

 参加者は、基本的に本学・法学系の学生(2年次以上)を想定しているが、これまでもそうであったように、本学・人文社会学系で熱意のある学生は歓迎する。以下、シラバスに若干加筆を行ったもの。

首都大学東京/法哲学演習/科目目種別:演習/単位数:2
担当教員:谷口功一
後期:水曜日2時限

1.授業方針・テーマ:現代正義論のSF的展開

2.習得できる知識・能力や授業の目的・到達目標:現代正義論の基本的な議論を丁寧に理解する。登場するトピックは、ノージック、ロック、行為功利主義、規則功利主義、ナショナリズム、福利論、ミルの自由論、ホッブズ、ロールズ、デモクラシーなどである。
3.授業計画・内容:下記、Mulgan の著作を会読する。併せて、正義論関連の邦語文献等も適宜参照する。本著作は気候変動・資源の枯渇などのために破滅の危機に瀕した世界というSF的設定の下、近未来の大学において開講される架空の講義形式をとったものであり、演習では、その17回分の講義内容を丁寧に読んでいく。

4.テキスト・参考書等:Tim Mulgan, 2011, Ethics for a Broken World---- Imagining Philosophy After Catastrophe, McGill-Queen’s UP。適宜コピーも配布するが、出来る限りAmazonなどで各自でも入手されたい。

5.成績評価方法:ゼミへの出席、参加の度合いを総合的に評価する。

6.特記事項:基本的に英語の文献を読むゼミであるが、テキストの英語は易しいので、臆せず参加されたい。なお、初回には必ず参加すること。初回に参加出来ない者は、基本的にゼミへの参加を認めない(同じことを何度も説明するのは大変なコストなのである)。

 

 参考までに、既に作りおいてあった上記 Mulgan著作の試訳と日本語目次も掲載しておく。

 

(試訳)前書き:壊れた世界を想像してみよう

 この本は、もし、われわれが壊れた世界(broken world)に住んでいるとしたら、政治哲学が中心的に扱うテーマや問題が、どのように変化するだろうかを考えるものです。壊れた世界というのは、人びとの基本的なニーズさえ満たせないくらい資源が不足し、めちゃくちゃな気候変動によって生命が危機に晒され、また、世代を重ねるごとに事態が悪化しているような世界のことです。こういう思考実験を分かりやすいものにするために、まさに壊れた世界のただ中で行われる哲学史の講義を想像してみることにします。この講義では、二十一世紀初頭の“富裕代(age of affluence)”と呼ばれた時代に書かれた古典的テキストを学びます。今あなたが読んでいる、この「前書き」と巻末文献リスト以外の本書の内容は、架空の未来の講義録から成り立つこととなります。
 気候変動は、本書の典型的なトピックであり、壊れた世界は、未来のあり得べき姿のひとつでもあります。ただ、本書は、気候変動だけを念頭に置いたものではなくて、壊れた世界という〔思考実験上の〕装置を用いることにより、さまざまな道徳的、あるいは政治的な理念が、たまたまそうであるに過ぎないものだということを強調しようとするものです。そこでは、われわれ自身の社会とその理想を、いわば外側から眺めることになります。壊れた世界に対処するために、現代の哲学をこれまでとは違ったかたちでイメージすることは、現在において過去の政治哲学者たちを彼らが置かれていた文脈の中で学ぼうとするのと同じような利益をもたらしてくれるでしょう。
 道徳哲学や政治哲学が気候変動に対し、どのような応答をするのかについては、時おり間接的に触れることになります。われわれの子孫たちが彼らの世界をどのように見るのか、われわれの遺産をどのように見るのかを考えることで、われわれが自らの生き方を考え直すようになることを望んでやみません。しかし、私はいかなる特定の理論を擁護する気もなければ、何か具体的なアドバイスをする気もありません。本書での私の目標は、読者の皆さんに、何をすべきかを伝えることではなく、自分たちと将来世代の人びととのあいだの関係について考え直す機会をもってもらうことなのです。
 導入レクチャーでは、壊れた世界とわれわれが暮らす「富裕代(affluent age)」とのあいだの主たる相違点について、おおまかに説明します。後段で明らかになるように、文明が完全に崩壊し、現在の人口のひと握りしか生き残らないといった、よくあるポスト黙示録的シナリオは設定しません。そこでは依然として組織化された社会が存在し、各人は壊れた世界の中で、何とかかんとか生き残ってゆく方法を見つけ出しているような状態にあります。壊れた世界の到来が、いつごろのことなのかということに関し、正確な日付は示しませんが、だいたい今から50年から100年後くらいを考えています。読者からすると、この世界の住人たちは、(せいぜい)自分の玄孫くらいで、それ以上遠い世代ではないということになります。また、この架空の講義がどこで行われているのかという点についても、地理的な設定を明確にするつもりはないのですが、北米や西ヨーロッパ、あるいはオーストラリア辺りの西洋先進国の生き残りのどこかで行われているものとします。以上のような非常に一般的な設定以外には、壊れた世界での生活のディテールを描き出すことはしないつもりです。本書は、理論哲学に関するものであり、思弁小説(speculative fiction)の実践ではありません。
 壊れた世界が必ず到来するとは言いません。人類の未来は、それよりも、もっと明るいものかもしれないし、逆にもっと暗いものかもしれません。グローバルな気候システムを取り巻く不確定性(とそれに対する人類の反応)があまりに大きなものであるため、誰も自信をもって何かを予測することは出来ないのです。わたしは、ただ、気候変動のようなものが、あり得べき未来のひとつであるということを主張するだけです。
 本書を読む上で、前もって哲学に馴れ親しんでいることは想定されていません。ここでは、今までにないやり方で、学部の導入的な政治哲学のコースで伝統的にカバーされてきたトピックの多くを紹介することになります。本書は、想像上の未来の学生たちと同様、読者の皆さんに対しても重要な著作を紹介するように構成されています。しかしながら、既に現代哲学をよく知っている読者にも興味をもって貰えるよう、十分にオリジナルな素材も盛り込むように努めています。第4講、11講、15講の3つの講義は、他の講義と比べると特に思弁的で挑戦的なものとなっています。これらの講義では、富裕代の哲学をダイレクトに壊れた世界に適用してみています。現実のコースでは、これらの講義は、せいぜい任意の読書課題に留まるでしょう。リーディング・リストは、テキストの中で議論されるすべての一次的ソースと精選された二次的ソースを含みます。
 壊れた世界の住人たちは、「富裕(代)」という言葉を、われわれが「中世」とか「古代」とか言うのと同じように使います。それは人類の歴史のなかの一時代である富裕な時代を意味します。「富裕代の哲学者」とは、その時代に存在した、その頃に特有の哲学者を指します。この〔富裕代という〕言葉を選んだのは、それが、われわれの社会とそこでの価値についてもっとも明確なものとして、壊れた世界の人びとの心を捉える言葉だろうと思ったからです。
 壊れた世界を枠づける舞台装置に加え、本書は以下の三つの点で標準的な入門書とは異なった特徴を有しています。最初の二つは実質的なものですが、第一に、標準的な入門書と比べ、本書でははるかに多くのスペースを世代間問題について割いています。本書のなかでも繰り返し述べることとなるように、壊れた未来という亡霊は、この無視された倫理領域の道徳的な重要性を大幅に高めることとなります。つまり、壊れた世界の人びとは、富裕代の思想のこのような側面〔=世代間倫理への関心の希薄さ〕を強調することになります。
 未来の人びとや壊れた世界の舞台設定のためにスペースを割いているので、本書を適切な分量に保つため、標準的な講義で通常期待されるくらいの数の思想家や理論を扱う余裕はありません。本書は網羅的であるよりは、ある種の典型を示すことを目指します。〔思想家や理論を〕取り上げるにあたっての基準は、現代哲学の流派の中で、われわれの富裕代の代表として壊れた世界の人びとの心を捉えるものはどれかという点です。従って、現代の資本主義的なリベラル・デモクラシーの擁護者を、不釣り合いに多く選び出すこととなりました。西洋式のライフスタイルに対して無数に存在するラディカルな批判を脇におくことは奇妙に見えるかもしれませんが、本書での章立ては、富裕代と壊れた世界とのあいだの違いに対してシャープに焦点があてられることになるはずです。さらに、本書は、根本的な変化について多くを語るのではあるけれど、壊れた未来を回避することの出来なかった富裕代に対する内在的批判を基礎としています。このように、それらはわれわれの時代に代表的なものとして思い出されることはないでしょう(富裕代の哲学に関して、もっとバランスのとれた説明をのぞむ読者は、リーディング・リストの中に示唆を見つけることが出来るでしょう)。
 本書の最後の特徴は、叙述の仕方にあります。わたしは、この架空のクラスに出席する学生たちを風変わりな過去の富裕代という時代を回顧する無感動な観察者として描き出しはしません。彼らは、われわれを我執にとらわれた世界の破壊者だと思っているのです。たぶん、奴隷制を敷いていたり異端を焼き殺していたりしていた過去の世代に対してわれわれが抱くのと同じような思いを、彼らはわれわれに対して持っています。このひとたちは怒っているのであって、その感情は時おり、本書のなかにも浸み出してくることとなります。架空の学生や教師たちは、時として非共感的でアンフェアでさえあります。つまるところ、われわれの状況に関する彼らの知識は、非常に不完全なものなのです。再びになりますが、もし誰かが他の人の世界を壊してしまったら、壊された方は壊したひとに共感を期待出来るでしょうか。

(中略)

 富裕代の哲学は、膨大な著作や論文、それらに対するコメンタリーなどを生産したが、今日まで遺されているものは、ほとんど存在しない。富裕代以前の書き手たちは、彼らの思想を木石やパピルス、あるいは紙など耐久性のあるメディアに保存したが、富裕代の人びとは、自らの技術優位性に対する過信のあまり、それら旧式のメディアを打ち棄て、すべてのコンテンツを電子メディアに移しかえたのだった。こうして、富裕代の終焉に先駆けたインターネット崩壊期に、これまで営々と蓄積されてきた人類の叡智は、永久に失われてしまったのである。
 このレクチャーで扱う中心的なテキストは、西大西洋沿岸に海没した都市から最近になって発掘された富裕代哲学の断片―― かの有名なプリンストン古文書群(Princeton Codex)である。本コースでは、毎週このテキストの一部を読み進めてゆくこととする。主要な富裕代の哲学者の書いたものの一節や、それに対して当時書かれたコメントなどである。しかるのち、私の方から、それぞれの哲学的トピックに関する簡単な概括を行うこととしたい。

 

 以下は、目次である。


《目次》

全4部構成(権利論/功利主義/社会契約説/デモクラシー)
前書き、イントロ+17章=全19章

前書き:壊れた世界を想像してみよう【03】
導入レクチャー:富裕代の哲学【16】

第Ⅰ部―― 権利論
第01講:ノージックの権利論【14】
第02講:自己所有【15】
第03講:ロックの但し書き【09】
第04講:壊れた世界のノージック【13】
第05講:ナショナリズム【09】

第Ⅱ部―― 功利主義
第06講:行為功利主義【11】
第07講:規則功利主義【11】
第08講:福利と価値【13】
第09講:ミルの自由論【09】
第10講:功利主義と未来の人びと【11】
第11講:功利主義と壊れた世界【15】

第Ⅲ部―― 社会契約説
第12講:ホッブスとロック【12】
第13講:ロールズ【13】
第14講:ロールズと未来【12】
第15講:壊れた世界のロールズ【13】

第Ⅳ部―― デモクラシー
第16講:デモクラシー【13】
第17講:デモクラシーと未来【10】

 

 以上、熱意ある学生を待っています。

いわし雲 人に告ぐべき ことならず (楸邨)

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 写真は、過日、新宿の追分だんご本舗の店先で撮影したものだが、酷暑もひと段落し、本日などは空模様も秋めいてきていた。このような空を見るたびに、年年歳歳相も変わらず表題の難解派・楸邨の歌を思い出す。この歌は、中高の現代国語の教科書か何かに出て来ていたのを覚えたのだが、三つ子の魂百までもで、いつになっても、ふと口をついて出て来るのである。

 

 それはさておき、仕事が切羽詰まってきていることもあり、ブログはしばしの間、お休みします。9月中には、また再開しますので、それまでの間 Au revoir。

三多摩帝国の逆襲/武蔵野インディアン vs. 東京白人

 日経新聞の8月25日版に「吉祥寺・町田は昔、神奈川県だった/知事が捨てた街 」という記事があり、ネットでも話題になっていた。記事は、三多摩が東京府(当時)に移管されてから今年で120年の区切りということで書かれたものである。

 記事:http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK21022_R20C13A8000000/

 当該記事は、以下のように始まる。

 大学時代、友人に「東京を出て多摩川を越えたら神奈川県」と教えられたことがある。西日本出身者としては素直に信じていたのだが、実際に当てはまるのは一部だけ。中流域では「多摩川を越えても東京都」だ。しかしかつては違った。八王子や町田、多摩川の手前にある調布や成城、吉祥寺も神奈川県だった。なぜ東京になったのか。事情を探っていくと、長年の課題である水源問題と、複雑な政治事情が浮かび上がってきた。

 これ以降の記事本文にもある通り、知っている人には当たり前の話なのだが、水源問題と自由民権運動の問題から三多摩は東京になったのであった。実は、この経緯や背景については、1982年に書かれた三浦朱門の『武蔵野インディアン』という連作小説の中で、活き活きと描き出されている。

武蔵野インディアン (1982年)

武蔵野インディアン (1982年)

 三浦は、元文化庁長官かつ曾野綾子の夫であり、わたし自身、そういう認識しか持っていなかったのだが、川本三郎の傑作『郊外の文学誌』を読んでいたら、この小説が紹介されていた。三多摩に住まう人間としては、実に、実に面白い小説だった。

郊外の文学誌

郊外の文学誌

 小説は、東京から三多摩に越して来た三浦自身をモデルとする主人公と、彼を取り巻く「多摩の豪族」たちとの交流を描き出している。余りに面白い箇所が多いのだが、以下、幾つか印象的な箇所を抜粋して、掲載しておく。

 

●「お前たちは、御維新後、都になった東京にやってきた東京白人よ。おれたちは原住民武蔵野インディアンよ。」[84]

●「その武蔵野で王者となったのが我が祖先だ」[86]」

●「お前ら、どいつもこいつも天皇の私生児の子孫だろうが。オレは違うぞ。オレはだな、世が世ならば、天皇と五分だ」[86]」

 

 三多摩古代王朝である。

 

●「おい、日清戦争の前の年まで、今の東京都下は神奈川県だったのを知っているか。都内に対して都外というならわかる。都の外だから、なら、多摩県でもいい、神奈川県でもいい。しかし都下という言い方、いかにも東京白人の発想だ。植民地扱いじゃないか。まるで・・・」[98]

 

 確かに「都下」という言葉は失礼である。

 

●「昔はなあ、江戸なんてものもなかったのよ。中心は鎌倉で交通網は鎌倉街道よ。鎌倉からの道が、厚木や、武蔵の府中、八王子、秩父、足利なんかをつないでいたのさ。これが昔のシルク・ロード。だから明治になって、横浜とつなぐルートは新シルク・ロードさ。みんな絹と関係のある町さ。今でもナイロンで女の靴下を作ってる町もあるけど、とにかく、道は山ぞいについていたのさ。江戸はなあ、新開地でね、それもよそ者の作った城下町よ。村野なんてのは、尾張のお鷹場の管理人というんで、捨扶持をもらってたもんで、徳川さまさまだけどさ」[98-99]

 

 多摩センターなんかで、この「絹の道」というのに関連したイベントなどよくやっている。あと、確かに江戸時代以前は、江戸は何もない。左卜全・・・じゃなくて塚原卜伝も修行のために西へ旅した時、房総半島から鎌倉までは船で行って、湿地帯でしかない江戸にあたるとこはすっ飛ばしていたな。

 

●(砂川市長)「うん、そういう所もあるなあ。おれが歴史の教科書で、十五代将軍、徳川慶喜は、なんて読むと、『公』の字を補って読めと叱られたもんなあ」[98]

 

 八王子千人同心とかもそうだなのだが、ここいらは徳川恩顧の人たちが多い。後でも出て来る通り、新撰組などまさにそう。今でも調布あたりは「土方」という名字のひとが居る。

 

●「だからな、明治の三多摩の自由民権なんてのは、つまり名目でな、要するに東京ぎらいということでな、大体が、あの時、藩閥政府にたてついた自由党民というのは、新撰組の生き残りや、その息子だもんな」[99]

●「・・・三多摩はどちらかというと、神奈川と縁があったのよ。多摩川沿いの甲州街道はありゃ、徳川が、甲州との関係で作ったのよ。地元とは関係ない」[105]」

 

 確かに甲州街道というのは五街道の中では変な街道で、参勤交代に使う藩はほんの幾つかしかない。ものの本で読んだ話では、甲州街道は、いったん江戸に火急の事態が起こった際に徳川宗家が直近の(絶対に信頼出来る)親藩たる甲州・甲府に脱出(evacuate)するための経路であって、四谷の木戸を出た先の新宿百人町に鉄砲隊を置いておき、それらを引き連れて速やかに脱出することを期していたのだ、とか。

 

 とか何とか、色々と思いながら読んだのだが、ふと思ったのは、そうであるのならば、1912年から続いた八王子の呉服屋(荒井呉服店)の娘だった松任谷由実が、デートの帰り、カレシに車で「調布基地」を横目に見ながら送られた道は、脇道である徳川様の甲州街道ではなく、字義通り、自由民権の地へと直通する堂々たる「中央《フリー》ウェイ」だったということか、とも思ったのであった。


中央フリーウェイ 松任谷由実 - YouTube

 ユーミンの歌の中に登場する「調布基地」は、当時のユーミンの舞台衣装がアーミールックであることからも察せられるように米軍基地だったのだが、元々は旧軍の航空基地であり、帝都防衛のための「禁闕守護」部隊が置かれていた。

 参考:陸軍飛行第244戦隊概史 http://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/sentaisi.htm

 

 遡るなら、三多摩は律令制下において、防人の産地であり、彼らは多摩の横山を通って北九州へと渡り辺境の防御の任にあたったわけであるが、その遠い遠い子孫かもしれぬ私(父母は小倉と八幡出身なのだ)が再び還り来て三多摩に住み、多摩の横山を切り崩した大学で教鞭を執っているというのも、何とも言えない因縁を感じざるを得ない。

赤駒を/山野にはがし/捕りかにて/多摩の横山/徒歩ゆか遣らむ

宇遅部黒女『万葉集』巻二〇の四四一七

  蛇足ではあるが、三浦の三多摩体験は2001年に『武蔵野ものがたり』というタイトルの新書として刊行されている。

 

※付記:エントリーをアップし終わって思い出したが、島田雅彦が『忘れられた帝国』という小説の中で、まさに上記と同様のモチーフを描いていた。

TBSラジオ「ゾンビ」番組出演・補遺(2)

 以下、つづき。

 

3)最近、同僚のから聞いた最も腑に落ちる説明

● 一連のアルバイトによる悪ふざけ騒動。昔からある単なる悪ふざけじゃないかという指摘に首肯する部分もあるが、それにしても悪ふざけを世界中に言いふらす神経は理解できない。世界が見ている/世界に見られるという意識が欠けてるとかいう意見も。

● なんかいろいろと語弊がありそうだが、高校生の煙草は隠れて吸うものでしょ、と思うところがある。いや、①やっちゃいかんことだ、という認識と、③バレてる、という認識の、いずれかあるいはいずれもが欠けてる。

● 彼/彼女らに欠けているのは、ネットには炎上ネタを探して日々見知らぬ他人のつぶやきをパトロールしている人種がいる、ということと。「匿名の悪意」への鈍感さといいますか。たぶん、それまでの環境では悪意は常に特定の「誰か」のものだったと思う。

● つまり、①はあって、②はクラスの誰かがタレこむ、と。多分、その場合そういう「ちくる」輩は、少数かつカースト低いヘタレなのでたいてい非力だと、彼彼女らのルールでは「道義」的にも自分たちが正しいとすら思える。しかしネットの場合はそうはいかない。

● 学校という閉鎖社会内だと、悪事を密告されても「なんかあいつがチクった臭くね?」とかいって、仲間でつるんでボコボコに出来るのだが、更に巨大な匿名の閉鎖社会に包囲されて、ボコボコにされてしまうの図。

●それは、卑怯な、ならず者の群れが、気付けば善良な農民の海に包囲されていた!みたいな風に、見えないことはないわけで。そうした一片の「正義」風味が、相対的DQNの転落祭りの「炎上」を加速するガソリンとなっている。

● これは要するに、ゾンビ映画!

● そうかあ、『桐島、部活やめるってよ』も、そういう文脈で人びとを涙させたのかあ。なんという慧眼。

● 昔の「国体明徴運動」とかも、インテリ・リベサヨDQN(性規範に寛容だったりするし)の炎上祭りだったというコト。

DQNをボコボコにしたところ、DQNから「くそー、お前らコロス!」とか言われても「もう、死んでまーすwwww(草生やしまくり)」みたいな。

● ロメロの Dawn of the Dead の台詞の通り。They're us....(ゾンビ=ネト民の炎上祭り)

● 体育会系DQNが覇権をほしいままにしているアメリカ社会における非リアの夢想。

● 死亡フラグはDQNに立つ、と。

 

3.ゾンビは現在の社会の中でどんなアイコンとなっているのか?

● ホッブズ的な自然状態(state of nature)=「万人の万人に対する闘争」が原イメージ?

● 匿名化された化け物が大量に襲ってくるというイマジネーションは、いつから?

● たぶん、こういう「大量破壊(massive destruction)」的なイメージは、優れてアメリカ的なものかも。

●「日常」の異化?装置(文芸理論で言うとこのシクロフスキーの「異化の理論」)

● 仮面ライダーの怪人とかで、一番怖いっぽいのは人間に近いのだったのと同じ。

●『パトレイバー』とかでアルタ前とか新宿東口の紀伊國屋とか出て来ると「おーっ!」となるのと同じ(日常の異化)。

● アイコンとしての説明になってないか・・・。ただ、これは何のメタファーか、というトコで説明してる。

●『ユリイカ』ゾンビ特集の中に面白いことを書いている人がいる。

● 橋下一径「ミッキーマウスにとっての最大のライバルとは、ミッフィーでもキティでもなく、ゾンビである。」

● 福嶋亮大「西洋のゾンビが人間の終わり(=廃棄物としての生)を指し示すのに対して、東洋の幽霊は逆に人間的欲望を純化するものとして現れる。」

 

4.ゾンビの発祥

OED(オックスフォード英語辞典)によるなら、1819年。

● ヴードゥー教起源のもので、西インド諸島とアメリカ南部諸州から。

● 最初のゾンビ映画。ヴィクター・ハルペリン監督『恐怖城・ホワイトゾンビ』(1932年)封切り。

● 近代的ゾンビの嚆矢は、もちろんジョージ・ロメロの『ゾンビ(Dawn of the Dead)』(1978年)

● たぶん、「人種差別」とかの表象として、息長く愛されて?来たのだと思う。

 

5.ゾンビは社会のどんな部分のメタファーとなってきたか(戦争、消費社会などなど)

 

1)ロメロ以来の伝統

● ロメロも、「オブザデッド」シリーズは、「社会批判」として作ってるとハッキリ言っている。

Night of the Living Dead1968):ベトナム反戦運動や公民権運動の挫折に象徴される60年代カウンターカルチャーの敗北

Dawn of the Dead1978):ショッピングモールに象徴される消費主義(consumerism)への批判

Day of the Dead/邦題『死霊のはらわた』(1985):レーガン政権下における軍事費の増大とホームレスの爆発的増加という社会矛盾

Land of the Dead2005):金持ちだけのgated-communityや格差への批判

Diary of the Dead2007)・・・

Survival of the Dead2009)・・・

● この「死霊の~」というのは大ブームになり、“Orgy of the Dead”は『死霊の盆踊り』というタイトルで公開されてしまった(江戸木さんが宣伝してやつ?)。

● さっきも書いたように「人種差別」とかのメタファーという見方も。

 

2)アメリカ人のゾンビ好き

● アメリカのテレビ電波(緊急放送)ジャック(テレビショッピングでシュール)

● マイアミ・ゾンビ事件(バスソルト)→ 疾病予防管理センター(CDC)が緊急声明

Wall Streetでのゾンビ・ウォーク→ 金融への批判

● 大統領選で共和党のロムニー候補をdisったパロディCM2012年、オバマが再選されたが、この大統領選の最中、映画監督ジョス・ウィードンは、ゾンビを用いたパロディ動画を作製した。ウィードン監督は映画『アベンジャーズ』で有名だが、ホラー映画のカルト的存在である。彼は、先の大統領選でロムニーを“逆推薦”するパロディ映像を作製してYouTubeにアップロードした。その中でロムニーこそが、アメリカをゾンビ・アポカリプスへと向かう軌道へと乗せてくれる候補だと褒め称え、映像の最後にはゾンビ化したロムニーと共に「ゾムニー(Zomney)」という合成写真が登場する。ロムニーの政策により、「ヘルスケア(保健)、教育、社会福祉、リプロダクティブ・ライトなどに関し、国は一気にひと昔前の状態に立ち戻ることができる。そのため貧困、失業、人口過剰、病気の蔓延や暴動に一直線!これらはゾンビが溢れかえる悪夢のように荒廃した社会を作るには、欠かせない重要な要素です」とウィードンはゾンビ・エキスパートとして説明してくれるのだ。ウィードンは、今大統領選の選挙キャンペーン期間、オバマ大統領の熱烈なサポーターとして活動している。如何、そのパロディCM。


Whedon On Romney - YouTube

● 共和党/民主党とゾンビ/ヴァンパイアの相関

● この辺りの話は、谷口功一「フィロソフィア・アポカリプシス--ゾンビ襲来の法哲学」『ユリイカ』ゾンビ特集所収に詳しく書いてある。

ユリイカ 2013年2月号 特集=ゾンビ ブードゥー、ロメロからマンガ、ライトノベルまで

ユリイカ 2013年2月号 特集=ゾンビ ブードゥー、ロメロからマンガ、ライトノベルまで

  • 作者: 花沢健吾,木村心一,風間賢二,藤田和日郎,すぎむらしんいち,谷口功一
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2013/01/28
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● ピーター・ロウによるなら、1968年以来、政治とホラー映画の関連性は強くなっている。ニクソン政権(共和党)開始の一ヶ月前に『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』が封切られるが、カーター(民主党)政権の誕生と共にゾンビ映画は凋落する。その後、1980年代のレーガン(共和党)政権期は、ゾンビ映画が最も豊穣となる。クリントン(民主党)が父ブッシュ(共和党)を下した十日後、コッポラの『ドラキュラ』(1992)が封切られた。クリントン期には、『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』や『ブレイド』なども封切られている。ブッシュJr.(共和党)政権になってゾンビは復活する。この時期、『28日後・・・』、『28週後・・・』、リメイク版の『ドーン・オブ・ザ・デッド』や『デイ・オブ・ザ・デッド』、そして『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』などが封切られた。7年間に183作(年平均26作)とゾンビ映画は急増した。オバマ政権(2008~)下においては、ゾンビ映画は7作のみ劇場封切り。ヴァンパイア映画は、2008年だけで18作以上封切られている。

● また、上記とは逆の説明になるのだが、ピーター・ディヴィスは、共和党/民主党とゾンビ/ヴァンパイアとの関係について次のように言っている(上の統計とは逆の相関であることに注意!):共和党はヴァンパイアを怖れる。なぜなら、それは性的逸脱や伝統への叛逆、あるいは外国人(そもそもドラキュラ公はルーマニア人)を想起させるからである。彼らの目には大規模な財政支出を伴う医療保険制度のようなものを実施しようとするオバマ民主党は、自由市場経済に寄生し、資本主義から血を吸い取ろうとするヴァンパイアに映るのである。

● 民主党はゾンビを怖れる。なぜなら、ゾンビは、ひたすら消費のみを行う存在であり(Braaains!)、その究極の目的は全人類を彼らと同じ存在へと「同化(assimilation)」させることだからである―― だからこそゾンビは共食いせず、生き残った人間だけを襲うのだ。リベラルな民主党にとって、ゾンビは因習的な宗教を表象するものでもある(キリストは死から甦った上で、人びとを改宗=同化させた!)一般的に保守は、「安定と伝統」を重視するが、ゾンビ社会は究極のかたちで、それを実現しようとする。なぜなら、ゾンビは社会の変革を目指したりせず、リベラルの目から見れば、順応主義(conformist)的で、自分のアタマで考えようとしないからだ。従って、リベラルにとってのゾンビとは、郊外的(suburban)であり、保守的であり、そして人種差別(racist)的なものの表象なのである。

 

6.時代とともに変わってきたゾンビの特性(今はゾンビが走るのは当たり前)

● 最初に走ったのは、『28日後・・・』かリメイク版の『ドーン・オブ・デ・デッド』だった気がする。

● ゾンビ・マニアでも「走るゾンビはアリか!?」みたいな争いがあるが、個人的にはどっちでも別にイイと思う(面白ければ何でもイイ)。

● 拙訳『ゾンビ襲来』の中では、低速ゾンビと高速ゾンビでゾンビの拡散に違いが出るのか?というのを検討した章があるが、結論はどっちでも同じ(ゾンビのグローバル化)。

ゾンビ襲来: 国際政治理論で、その日に備える

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  • 作者: ダニエルドレズナー,谷口功一,山田高敬
  • 出版社/メーカー: 白水社
  • 発売日: 2012/10/24
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7.そういった特性の変化はなぜ起きたのか

● なんで走るようになったのか?―――「現代社会における情報の速度が~」とか、取って付けたような説明は色々言えるだろうが、特に深い理由はないと思う。走らせてみたかったという、ただ、それだけのコトか、と。

● これも外在的な理由で、CGの技術的進歩とかによるのでは?

● 今回のブラピのWWZでも、エンドクレジットを観てたら、あんだけゾンビ出ていたのにゾンビ役の人の数は大したことなくて、テクノロジーの勝利!という感じ。

※ 補足:江戸木さんから、バイオハザードとかゲームで走るのが多いから、その影響ではという指摘あり。その通りか、と。あと、映画のスピード感とかを出すためにも必要だったのかもとか。

 

8.ゾンビは今後、どうなっていくのか etc...

● わたしが教えて欲しいくらいである。

● ただまあ、そんな流行るもんじゃないと思うし、ゾンビがメジャーになる社会というのは、ちょっと嫌。

●『あまちゃん』みたいに、みんなが「今日のゾンビ観た?」とか聞いてる社会とかってのは、ちょっとアレ。

● ただ、サブカルチャーとしては、ジャンルとして確立したのでは?これから、その影響を受けて、また色んなクリエイターが出て来るかも。

 

 以上。楽しい一日だった。

TBSラジオ「ゾンビ」番組出演・補遺(1)

 過日、TBSラジオ「荻上チキ・session-22」に生出演させて頂いた。お題は「ゾンビは現代社会の何を映し出してきたのか?」。私以外のスタジオゲストは、『アイアムアヒーロー』の漫画家・花沢健吾さんと映画評論家の江戸木純さん。

 

当日の放送はコチラ→ http://www.tbsradio.jp/ss954/2013/08/20130823-1.html

 

 ラジオ出演は初めてだったので、以下、当日の様子を少しだけメモとして残しておく。放送への出演自体は、22:45くらいからだったのだが、22:00には控え室入りして他のお二方のゲストとディレクターの方を交え、打ち合わせ。原稿は、司会の荻上さんとアナウンサーの南部さんが喋るト書きのような部分以外は、基本的にフリーで、幾つか柱立てがあるだけ、という感じだった。

 控え室は収録スタジオと同じフロアのすぐ近くにあり、打ち合わせ中も番組が館内放送でオンエア中の音声が聞こえてくる。いざ入り時間になって収録スタジオに入っても、何だか地続きでスルリと入ったという感じで、「生放送の場所に居る」という実感は希薄だった。不思議な感じ。収録スタジオの壁に地震の際の対処法が大書されていたのが印象的だった。

 荻上さんは、本は幾つか拝読させて頂いていたものの実物を見るのは初めてだったが、素晴らしい仕切りで感嘆した(しかも、イケメンである)。我々ゲストは、荻上さんたちがオンエアで喋っている途中で入って、番組終了と共に写真などを慌ただしく撮るなどしてからスタジオを去ったので、打ち合わせなどでゆっくりお話する機会は無かったが、面白い方だった。また、お会い出来る機会があればイイな、と。

 江戸木さんは、東京国際ゾンビ映画祭などもやられているゾンビ・マニアの大先達で、控え室での色々な話も大変含蓄深く、実に勉強になった。当日は、ロメロの『ゾンビ』(ダリオ・アルジェント版)の1978年日本公開時のパンフなども持って来てくれており、盛り上がる。

 花沢さんも、もちろんお会いするのは初めてだったのだが、twitterなどでは、ちょっとココには書けないようなコトをよく呟かれているので、「本物はどんな人なのだろう・・・」と実は危惧していたのだが、会ってみると物凄い好青年風のキチンとした方で、ズッこけた。放送終了後、画まで添えて貰って『アイアムアヒーロー』最新刊にサインを頂き、感激である。 

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 以下は、事前に番組ディレクターの方に送っておいた話題のメモ(そのまま)。当日は時間の制約もあり話せないこともあったので、折角なので掲載しておく。

 

TBSラジオ用のメモ》

 

※ 既にあるファイルの中から抜粋して以下、箇条書きにしておきます。1時間くらいで作ったので粗いものになっています。もちろん、全部を話す気ではありません。使えるトコを使うという感じで。

※ 司会の方から、下記の中からテキトーに話を振って貰えばイイと思います。

※ 以下の「0~8」は、お送り頂いたメールで例示的に示されていた項目そのまま。

 

0.内容(=お題):「ゾンビの社会学」

 

※「社会学」?

● 私の専門は、実は「法哲学(正義論)」。NHKでやっていた『ハーバード白熱教室』のサンデル先生みたいなの?と思って貰えばイイ。 

● 法学の中には「基礎法」という分野があって、法学部の中に丸ごと文学部があるような感じになっている。フルラインナップだと、法哲学・法社会学・日本法制史・日本近代法史・西洋法制史・東洋法制史・英米法・ドイツ法・フランス法・ローマ法・中国法・・・みたいな感じで、哲学、社会学、歴史学、地域研究の全部が法学部の中にあるという感じ。

● 医学で「臨床」と対置される「基礎」みたいなもの。解剖学とか生化学の先生と思ってもらえばイイかもしれない。

● 法哲学は「ゾンビに関する疑問」にも応えることがある。例えば・・・

 Yahoo知恵袋

〔質問〕:バイオ5のゾンビに取り囲まれた刑務所と、反日デモの区別がつきません。どうしたらよいですか

〔ベストアンサーに選ばれた回答〕:襲撃相手を国籍で差別しないので、ゾンビのほうが民主的だと思われます

→ これは端的に間違い。「自由」と「民主」を取り違えている。国籍などの個体属性に基づく差別的取り扱いをしない(平等要請への応答)のはリベラリズム(自由)の原理に基づいている。「民主」制のほうが、差別的取り扱いを帰結し易い。なぜなら「民主(democracyDemokratia)」という時の「デモス(Demos=人びとの集団)」は、特定の境界を持った「政治共同体」を前提にしているから、その外と内を区別する。内部でも多数者と少数者という分離が生じる(ゾンビが多数になったら、どうなるだろうね。でしょうね、ハハハ・・・)。

→ リベラル・モチーフは、ゾンビものの小説とかにも良く出て来る。「ゾンビの権利」とか。アメリカ人は、そういうの大好き。(ブラウン『ぼくのゾンビライフ』太田出版とか)

 

1.『ワールド・ウォーZ』、『アイアムアヒーロー』などゾンビカルチャーブーム

 

1)映画『WWZ』について(注意:ネタバレ含む)

● 現在、ブラピ様の『WWZ』公開中。この前、観て来た。

●「ブラピのブラピによるブラピのための映画」。

● とにかく速い、多い。観終わった後、クタクタになったのだが、ひとことで言うと「富士急ハイランド」みたいな映画。デート向け(吊り橋効果?)

● 一緒に観た家人によるなら、女子目線的には、「ブラピ様、(自分で片腕ぶった切ったくせに)イスラエルの女性兵士に超親切だし、家族想いだし、カッコイイし、ウットリ」とか、そういう見方をすべきものであるらしい。

● ゾンビ映画だと思って意気込んで観に行ったマニアは、カップルで観に来た連中の女の方が「ブラピ恰好良かったよNE!」とか言ってるのを、帰り道に耳にして、たぶん即死。

● イスラエルが前もってゾンビ禍拡大を知っていて長大な防壁を構築したというのは、原作と全然違うのはともかくとして、壁の中に入れた喜びで、大声で歌っていたアラブ人の連中のせいで、壁外のゾンビたちに気付かれて、イスラエル壊滅というのは、ブラック過ぎる(大丈夫なのか?)。

● 所謂 Zombie-Zero(感染源)が、原作では中国(三峡ダムのせい)だったのが、映画では台湾みたいなコトになっていて、途中で韓国とか、ドイツの臓器売買とか言い出して、誤魔化しまくっていた(中国マーケットへの配慮だね、こりゃ)。

● ユダヤ教の「サンヘドリン」の「全会一致は無効」話の改変版が出て来ていた。

● イリジウムの充電器って、どんなんなのだろう?

● 今回は、ゾンビ映画のお約束の「立て籠もり」は一切無し。途中でヒスパニック系の家族に「動くのが重要だ!(Movement is Life)」って言ってたけど、全編がそのモチーフに貫かれている。

● ゾンビに見つからないように「しーっ!」ってなって在韓米軍基地内を移動してる時、ブラピのカミさんから無神経な着信があった際はイラっとした。つうか、イリジウムってマナーモードとかあんの?

● あと、凪的なカジュアルな略奪も無かった。みんな本気で略奪モードになってて、わたし的には、ちょっとドンびき。

● ある意味『ドリフ』である。「志村うしろー!」みたいな。

● 凪モードは自動販売機破壊してコーラ飲むトコくらい。

● ツイッターで「ワールド・ウォー・Z」って検索すると感想は、ほぼ二種類。「心臓がバクバクした」と「ブラピ様、カッコイイ!」。

● 最初に撮影したラストは、ブラピ様がロシアの機甲師団だかを指揮して、ゾンビを殺戮しまくるというものだったらしいが、それだとファミリー向けにアレなので、撮り直したところ、予算が70億円増えて190億円になったらしい(@tk_zombieさんのエキサイトの記事)

● ソースは今ひとつ不確かなのだけど、WWZ3部作の映画になるという話もある。

● 拙訳ドレズナー『ゾンビ襲来』は、まさに『WWZ』の副読本。

● ゾンビ映画の大御所・ロメロ監督が「The Zombie Autopsies」(ゾンビ解剖学)という小説の映画版のシナリオを書き終えたらしい。

 

2)『アイアムアヒーロー』について

● 花沢先生の作品は『ボーイズオンザラン』の頃から愛読している。『愛しのアイリーン』の衣鉢?を継いでいると思った。『ルサンチマン』とかも最高。

● 昔、連載が始まった頃に、コンビニで立ち読みしてた時「あれっ!?これはゾンビ漫画だ!」と分かった瞬間、思わずコンビニで雄叫びを上げてしまった(夜中)。

● 主人公の編集者(台湾でゾンビになる人)が、本当に居そうで大笑いした(モデルが居るのだろうか?)。

● ロードムービー的な要素も「立て籠もり」も何でもアリで、素晴らしい。

● 最初の猟銃の話に痺れた(私も昔、猟銃免許取ろうと思ってた)。

 

3)最近のゾンビもの・ブーム?

● ドラマ『Walking Dead』(アメコミの方の翻訳も風間さんが出してる。今5巻?)

● 安倍総理も観ているらしい。

● 漫画(連載中):相原コージ『Z』、すぎむらしんいち『ブロードウェイ・オブ・ザ・デッド 女ンビ・童貞SOS』、福満しげゆき『就職難!ゾンビ取りガール』などなど。

● 映画(2012年以降に封切られた/封切られるもの)

『ゾンビ革命:フアン・オブ・ザ・デッド』←キューバ映画

『キツツキと雨』:役所広司主演

『ロンドンゾンビ紀行』

『ウォーム・ボディーズ』(ロマンティック・ゾンビ・コメディ/921日封切り)

  『桐島、部活やめるってよ』

● キリスト無双! キリストが魚でゾンビをぶち殺す映画『フィスト・オブ・ジーザス』とかも。もうワケが分からない。

● 歌舞伎:宮藤官九郎(@あまちゃん)の『大江戸リビングデッド』

 

2.なぜ今ゾンビブーム?

 

1)よくある説明「社会が不安定になったら、ゾンビ・ブームになる」

Gizmodの記事(戦争・社会不安とゾンビ映画)

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●「無意識が~」とか言い出したら何でもアリになるので、正直好きな説明ではないけど、いちおうしておく。ブログにも書いてあるので、そっちも参照。

● 谷口ブログ「なぜ、今ゾンビが流行っているのか?」も参照。

http://taniguchi.hatenablog.com/entry/2013/07/30/092042

90年代の不安は、95年のオウム・サリン事件でピークを画すんだけど、これについては宮台先生が「終わりなき日常」って言い出して、この図式はひろく受容された。

● しかし、この終わらないと思われたマッタリした《日常》は、失われた20年~リーマンショック~311で、いとも簡単に木っ端みじんになり、むしろ、そんな《日常》懐かしいYOネ!みたいな事態に。

● 特に311以降は《日常》どころか《終末》が常駐するように。《終末》の最も端的な形態は「死」だけど、「太陽と死は直視出来ない」ところ、のろのろ歩いてじっと凝視しやすいゾンビは、《終末》世界をイマジネーションによって加工するための恰好のメディアだったのかもね、とか。

● 余談だけど、「哲学」も《危機》の時に流行る。

●『ソフィーの世界』1995年(数百万部)=オウム事件+阪神大震災

● サンデル(始球式)→ 311

 

2)サプライサイドの事情(製作者のジェネレーション)

● 上述の通り、現在連載中のゾンビ漫画は把握してる限りで、すぎむらしんいち『ブロードウェイ・オブ・ザ・デッド~女ンビ童貞SOS』、花沢健吾『アイアムアヒーロー』、福満しげゆき『就職難!ゾンビ取りガール』、相原コージ『Z』だけど、それぞれの生年は、66年、74年、76年、63年。

● あと、『大江戸リビングデッド』の宮藤官九郎は1970年生まれ。要するにゾンビの洗礼を受けた世代が「作り手」になり、ある程度、好き勝手出来るくらいの歳になったということでは?『桐島、部活やめるってよ』もあるけど、80年代生まれか(映画版の監督は60年代生)。

 

● ゾンビは、これからどうやったら日本に定着するだろうか?→「朝ドラでゾンビやったら、それが日本にゾンビが定着したという証拠」(絶対、ムリw)

 

 エントリーが長すぎてアップ出来ないようなので、分割する。(つづく)

 

ベルギー/バウツとファック・バー

 このブログは、私自身の記憶の外部化も一つの大きな目的なので、以下、メモ。

 いつも名前を忘れてしまうベルギーで知った画家の名前は「Dirk Bouts」。Wikiでは「ディルク・ボウツ」と表記されていたが、ブリュッセルのベルギー王立美術館で観た帰りに美術書の専門店に立ち寄って画集を探していた際には、店主から「バウツ」と発音された記憶がある。

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(Wikiより。『聖エラスムスの殉教の三連祭壇画』中央パネル, 1458年)

  ちょっと分かりにくいし、分かっても唖然とするだけなのだが、上の絵は、聖エラスムスが、生きながら腸を巻き取られるという拷問を受け、殉教した図である。

※ 付記「聖者は、いつも拷問に遭っている・・・」

 http://blog.livedoor.jp/mondocane/archives/28784914.html

 王立美術館には、ヒエロニムス・ボシュの絵が多く展示されており、観覧者の多くはそちらに集まっていたが、本物を観るのは初めてだったものの、意外に何の感興も湧かず、初めて知ったバウツの絵の方を夢中になって観ていた。宗教的モチーフが多いのだが、この人の絵は何かが変なのである。何が変なのかは、今となっては上手く説明出来ないのだが。ただ、眺めていて飽きない。

 前出の書店でバウツの画集を1冊なりとも買おうと思ったのだが、店主にその名前を言ったら「おー、お前は中々イイ趣味をしてるな!」と褒められたものの、肝心のバウツの画集が書棚から中々見つからず、見つかったと思ったら重量級のレゾネ的なものしかないということになり、これが日本円で6万円くらいしたのもあって、購入を断念したのだった。

 この日は、とにかく良く歩いたので汗をかいた。書店を出ると夕闇が迫って来ており、やおら寒くなって来て汗が冷やされたので、用心のために露天で5ユーロくらいの帽子を買い、その後も、この帽子は長らく愛用していたのだが、いつの間にか無くなってしまい、今は手許にない。

 このベルギー行は、井上達夫先生との出張だったのだが、主要な訪問先のブリュッセル・カトリック大学が訪問日に学生のストでピケを張られていて、しばらく入れなかったり、ルーヴェン(Leuven)では、当時わが大学に赴任直前だった日野愛朗先生に街をご案内頂いたりと、思い出の多い旅だった。ただ、当時の円=ユーロ・レートが凄まじいことになっており、その点は実に難儀したのだが・・・。

 そういえば、ルーヴェンは、駅を出るとすぐに広場があり、そこに街のシンボルの小便小僧のようなもの(Fons Sapientiae, known lovingly as 'Fonske')が居るのだが、これが実にふるっていた。

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 上記の画像が、それなのだが、これはルーヴェンが古い大学街であることから、街のモットーとして「よく呑み(アタマにビールを注いでいる)、よく読む」というのを現しているらしい。現に日野先生のお話によるなら、この街には大量の「ファック・バー」というものがあり、これはいかがわしいものではなく、Fuculty(大学の学部/教員団)のバーなのだということだった。

 例えば、薬学部だと「Capsule(カプセル)」というバーをファカルティの出資で運営しており、組合員は安く呑める、とか。法学部だと「Justitia」とかにでもなるのだろうか?日本の大学でも、こういうのを作るとイイのにと、ずっと思っている。

 我が首都大学東京のある南大沢にも、是非ともファック・バーを作ってくれないだろうか。もちろん、喜んで出資する。

 

※ 付記

 このエントリーをアップした後、知人とバウツの絵の何が「変」なのだろうか?と話していたところ、以下のような話を聞いて少し得心した。バウツは、Wikiの項目に書かれている通り、15世紀に「北ヨーロッパで最初に遠近法における消失点を表現した画家の一人」らしいのだが、だからこそ、消失点(vanishing point)導入初期における、その描きぶりについて、「草創期のCG合成のような、リアリティが迷子になる感じが面白い」といった感じになるのではないか、と。なるほど。

北海道、東北で3番目に人口の多い都市は?

 東北・北海道の全県で「最も人口の多い都市を3つ挙げろ」と言われて即答出来るだろうか?1位と2位は簡単で、次の通りである。

 

 1位:札幌市 191万4,434

 2位:仙台市 104万5,903

 

 しかし「3位は?」となると、ハタと頭を抱えてしまうのではないだろうか。・・・答えは「旭川市」である。恐らく、東北全県の仙台以外の県庁所在地のどこかを思い浮かべていたのではないかと思うが、秋田市を除き、その他の県庁所在地は全て30万人以下の規模なのである。

 

 3位:旭川 34万7,275

 

 どうでもイイことだが、旭川は、何故か憲法訴訟とも縁が深く、旭川学テ訴訟や、本人訴訟で最高裁まで争ったことで有名な旭川市国保料訴訟などがある。実は、この「第3位は?」という話自体、初めて聞いたのは司法修習で旭川に配属された大学時代の同級生からだったと記憶している。なお、4位以下は次の通りである。福島県に規模の大きい都市が偏在しているのが分かる。(函館市が落ちていたので付記しました。ご指摘下さった方、ありがとうございましたm(_ _)m)

 

 4位:福島県 いわき市 34万2,198 

 5位:福島県 郡山市    33万8,772 

 6位:秋田県 秋田市    32万3,363 

 7位:青森県 青森市    29万9,429 

 8位:岩手県 盛岡市    29万8,572 

 9位:福島県 福島市    29万2,280 

 10位:北海道 函館市    27万9,110

 11位:山形県 山形市    25万4,084 

 

 わたしの勤務校である首都大学東京の沿線=京王線の幾つかの町と比べてみるなら、以下の通りである。

 調布市が、22万3,609

 八王子市が、57万9,799 

 世田谷区となると、87万8,056 

 

 更に西の端の九州・沖縄と比較してみると以下のようになる。那覇が予想外に小さいのと、佐賀市が県庁所在地であるにも関わらず10位位内に入っていないのが意外である。

 

 1位  福岡県 福岡市   146万3,826 

 2位  福岡県 北九州市  97万7,288 

 3位  熊本県 熊本市   73万4,294  

 4位  鹿児島県 鹿児島市 60万5,940 

 5位  大分県 大分市   47万3,955 

 6位  長崎県 長崎市   44万3,469 

 7位  宮崎県 宮崎市   40万0,352 

 8位  沖縄県 那覇市   31万5,765 

 9位  福岡県 久留米市  30万2,323 

 10位  長崎県 佐世保市  26万1,146 

 11位  佐賀県 佐賀市   23万7,501 

 

 東西の端を比べた場合、都市部に関しては、西側の方が人口稠密度が高いようである。以上は、Wiki の「日本の市の人口順位」の項目からの抜粋を用いており、2013年5月1日時点での法定人口に基づいている。

 東北については、2011年3月以前から色々と思うことがあるのだが、上記は時折ひとと話すことではあるものの、いつも正確に思い出せないので、自分のための備忘録も兼ねて掲載しておく。なお、東北について考える上で、以下の2冊は、とても良い本だった(前者は昔、仙台で買った)。後者は本当に読むに値する本なのではあるが、手放しで「良い本」というのは、ちょっとアレか・・・。西南人士たる私としては、頭を垂れざるを得ないのである・・・。

東北―つくられた異境 (中公新書)

東北―つくられた異境 (中公新書)

国の死に方(新潮新書)

国の死に方(新潮新書)

 

わたしは誰?

 お盆も、そろそろ終わりなので、どうでもイイことを書くが、しばらくNHKの「おはよう日本」の阿部渉アナに似ていると言われていた。

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 私のお師匠さんも、ご家族で「谷口君に似てるわねえ」とか毎朝言っていたそうだ。最近は「半沢直樹」でオネエ言葉でネチネチやってるラブリン(片山愛之助)に似ているらしい。

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 昔は、吉岡秀隆(「北の国から」の純クン)に似ていると言われていたのだが・・・。“吉岡秀隆時代”は、JAL機に乗ってる時にスチュワーデス(当時/今は死語)のお姉さんからサインを頼まれて困惑したりしていた・・・。「吉岡様ですよね?」とコソコソ言われたのだが、「吉岡秀隆」という名前を知らなかったのだ汗。

 家人からは「犬顔」とか「マンガ顔」と言われている。

 

 私は誰?汗

ラグマン/タシケント異聞

 過日、『孤独のグルメ』に「ラグマン」が登場しているのを観て、懐かしくなったので自分でつくってみた。後述のように、昔、ウズベク出張の際に食べたのだった。ただ、麺から打つのは酷暑の中、余りにも辛いので、代わりに素麺を使い、コリアンダーをよく効かせてみた。我ながら余りの美味さに驚いた。酷暑のみぎりトマトが実に爽やかで最高である。我が家に中央アジアの薫りが、立ち籠めた。

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 ラグマンは中央アジア一帯で食べられている料理であり、羊肉入りトマトうどんのようなものだと思って貰えばイイだろう。羊肉がダメでなければ、夏のメニューとしては、とても良い。マンガ『乙嫁語り』(舞台はカスピ海周辺?)の中にもラグマンは登場していたかと思うが、中央アジア一帯は、ゆるやかに長く延びる文化的連続性が存在しており、とても面白い。

乙嫁語り 1巻 (BEAM COMIX)

乙嫁語り 1巻 (BEAM COMIX)

 タシケントのホテルのバーで呑んでいる時、隣に座っている女性と話していたところ、「今度、中国の親戚のトコに行かないと」というので、「どこ?」と聞いたら「新疆・ウイグル自治区」だった。彼女はトルコにも親戚が居るという。考えてみれば「突厥」とかも「エフタル」なわけで、中国の縁辺部からトルコくらいまでは、ひと繋がりなのだな、と独りで勝手に感心していた。

 私が、このラグマンを初めて食べたのは、ウズベキスタン共和国のタシケント法科大学に出張した時だった。このウズベク出張は、名古屋大学法学部の法整備支援事業でお招き頂き(大変意義のある事業である)、大屋雄裕さんと井上達夫先生と行ったのだが、その時わたしが話したのは、いま話題の「内閣法制局」まわりについてだったなあ、とかも思い出す。当時、ウズベクには法制局は存在しなかったのだが、風の噂では私が帰った後に出来たとか出来ないとか(ウズベク法制局の父?いや、よく分からないのだが)。確か、ラグマンを食べたのは、以下のレストランではなかったかと。ここはシシャリクも美味かった。雰囲気の良いレストランである。

 Caravan in Tashlent:http://www.tripadvisor.jp/Restaurant_Revew-g293968-d1128330-Reviews-Caravan-Tashkent_Tashkent_Province.html

  この時の出張については、以下のPDFファイルの10頁目に短いエッセイみたいなのを載せている。

谷口功一「日本法教育研究センター ウズベキスタンスクーリング /世界地図の空白を塗りに」(注意:PDFです)http://cale.law.nagoya-u.ac.jp/_userdata/25.pdf

 この出張の際には、サマルカンドにもお連れ頂いたが、世界史の図説でしか縁のなかった地に仕事で行く機会があるのは、本当に感慨深いことである。ブルーモスクは本当に美しかった(参照:http://eritokyo.jp/independent/silkrood2.html)。

 あと印象に残ったのは、シベリアから強制的に連れて来られた日本人捕虜の墓地に参拝したことだ。ウズベク人は、ソ連時代、禁止されていたにも関わらず、密かにこの日本人墓地を守ってきた。ウズベクは親日国なのだ。これに関しては、ナカニシヤ出版の『公共性の法哲学』の寄稿した私の論文の中でも触れており、その点でも、この墓地を訪れることが出来たのは、大変に感慨深いことでもあった。

 最近は高校で「世界史」未履修の学生も多いようだが、実に勿体ないことである。世界史を知らないというのは、人生の楽しみを幾分損なっているといっても過言ではない。

 なお、ウズベクについては、中山恭子議員が、大使時代の想い出を綴った『ウズベキスタンの桜』という本があるのだが、これは名著である。エネルギー問題等をめぐり、ロシアや中国が「グレートゲーム」とでも言うべきものを展開しつつある昨今、その舞台である中央アジアについて知る上で裨益するところ大なので、オススメしておきたい。

ウズベキスタンの桜

ウズベキスタンの桜

西の味、或いは箱根のあちら/こちら側

 過日、家人が大阪寿司を買って来てくれた。「八竹」(http://www.hachiku.jp/)のもの。

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 私が知らないだけなのかもしれないが、都内では余り見ないので嬉しい。

 

 20年以上前に東京に出て来た時は、色々なことに驚いた。うどんつゆがドス黒く濁っている(失礼!)のとか、うなぎがじゅくじゅくに蒸してある(失礼!)のとか、「箱根の向こうは怖いとは聞いていたが、やはり・・・」と思ったものである。さすがに今は慣れたが、しかし、東西の(食)文化の違いは結構大きい。ただ、醤油だけに関しては、未だにこちらのものはダメで、わたしはいつもフンドーキンのものを買いにわざわざデパートまで行っている・・・。

 東西の文化的相違については、福田アジオの『番と衆--日本社会の東と西』などが面白い。これは村落構造などから東西の違いを浮き彫りにしたものである。

番と衆―日本社会の東と西 (歴史文化ライブラリー)

番と衆―日本社会の東と西 (歴史文化ライブラリー)