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『日本思想史講座』第4巻:近代(2) 続く・・・かもしれない

「大部分引用句から成る作品を書くこと---- 想像しうる限りの気ちがいじみた寄木細工の手法 ----」Arendt, Hannah, 1968, Men in Dark Times, Brace & World, Inc., New York(阿部斉訳『暗い時代の人々』河出書房新社、一九八六年/訳196頁。)

 與那覇潤「荒れ野の六十年--植民地統治の思想とアイデンティティ再定義の様相」読了。卒読、上記の引用を想起した。もちろん、良い意味で。

日本思想史講座(4)近代

日本思想史講座(4)近代

 先のエントリーで書いたことの繰り返しになるが、『「中国化」する日本』以降に與那覇さんが書かれたものの中では、(僭越ながら)最も完成度の高いものであると思った。 

 本論文は、とにかく、その《密度》と《速度》が凄まじい。大量の二次文献を駆使しつつ、それらの全てを見事に飼い慣らしている(ように私には見える)。東アジア世界(日中韓)の、この六十年間の目眩く歴史の大ページェントを僅か三〇頁余りの論文の中に凝縮しており、あたかも台湾故宮の「彫象牙透花人物套球」の如しである(これは、ちょっと褒めすぎか。でもまあ、一読後、昔、台湾故宮で実際に見たコレを思い出したのだった。冒頭の引用通り、変態細工的ではあるが、文句なく素晴らしい)。

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 論旨の基本線は『「中国化」する日本』と変わらないと理解したが、以下、興味を惹いた箇所を私の研究用ノートから、メモを兼ねて掲載しておく。強調は、谷口による。

 

● 「〔日本〕帝国の建設から破綻に至る政治過程」→「各々に固有の特質を帯びて形成された東アジア諸地域の思想文化が、それぞれの普遍性を賭けて対峙した時代」[222]

●「結論を先取りして言えば、中華世界における覇権が近世以来はじめて直接にむき出しの政治闘争にさらされ、日本思想の臨界が他者の前に問われる経験だった」[222]

●「近世東アジア世界における平和外交を支えたのは、第一に国際関係における曖昧さの活用であった。」[223-234]

●「「法の支配」が貫徹しなかった東アジア諸国では、たとえば徳川日本の場合、刑法典の内容が表向きは民衆に公開されず、厳罰と赦免のあいだで行政官による裁量の余地の大きい人治主義を採った」(日本の目明かし、朝鮮の小吏)[224]

●「一般民衆は厳格な法適用を求めるというよりも行政官に手心を加えてもらうための「相場」を織り込むことで、明文化された「人権」の欠如に対応していた」[224]

●「多義性と曖昧さを活用する近世東アジア文明の特質」[224]

●「・・・科挙への合格によって獲得される士大夫というアイデンティティの重要性を勘案するとき、中華世界におけるアイデンティティとはいわば「である」以上に「になる」ことが重視される、可変的かつ動態的な形態をとっていた・・・」[225]

●「朱子学の形成によって「聖人」を努力次第で誰もがなりうる存在とし、為政者には普遍的道徳の担い手たることを絶えず求めることで国家の政治運営を統御してきた」[225]

●「自覚的に曖昧な秩序」⇔「西洋近代型のリジッドな主権/国民/法治国家体系」[225]

●「欧州でフランス革命を生んだともされる十八世紀末の小氷河期現象(寒冷化による大凶作)は、日本では松平定信による寛政の改革をもたらし、その下で初めて朱子学が幕府の公認イデオロギーに・・・近代的な市民感覚とは異なり儒教的な志士仁人を範とする主体形成が進むこととなった」[227]

●「少なくとも思想史的には、三国〔日中韓〕のうち、日本のみが社会秩序の「儒教化」というカードをこの時期〔維新期〕まで切っていなかった。・・・幕藩体制という非儒教的政体を十八世紀末まで維持していた日本人のみが、対外的には他国にも通用する世界普遍性の主張、国内的には規範道徳による現状批判と既成身分の相対化という、儒教思想の開放的性格を「守旧」ではなく「変革」のエネルギーに利用することが可能であった [227-228]

●「そもそも「儒教化」のカードを遅く切ったがゆえの明治維新の成功を、文明の普及と称して近接地域に輸出する試みは、もとより朱子学国家であることを自任していたc朝鮮で最も痛烈な抵抗にあう」[232] 

●「『礼記』の大同世界を掲げた王道主義を説いて満州国の桂冠学者となった橘樸は、内藤湖南の『支那論』にみえる郷団自治論に、戦間期の欧米で国家の相対化を企図し政治的多元主義やギルド社会主義の発想をかけあわせ・・・」[240]

● 「大日本帝国の思想史的な敗因」=「天皇という特殊主義的に語られる存在を国体の中心としたところから生じた、統治イデオロギーにおける普遍性の欠如」・・・「近代天皇制が万世一系を掲げて「革命」の可能性を否定する教義を採ったことは、植民地統治に援用出来る現地の土着思想の幅を著しく狭くした」[246]

●「単一民族幻想に安住する日本人と、現在の居住地をあくまで仮の宿とみなす朝鮮・韓国人とが奇妙にすみ分ける、対話を欠いた多文化状況が列島に出現した」[250]

●「境界が不明瞭な東アジア世界の秩序を、近代化された巨大な暴力によって整序しようとした日清戦争から朝鮮戦争までの半世紀間の後に、再び自覚的な曖昧さの活用による、合意なき事実上の平和が回帰したのであった」[250]

 

 どうだろう?以上を瞥見すれば、すぐにでも、書肆に走りたくならないだろうか?

 

 さて、このブログでも何度か触れたことではあるが、私はここ数年「儒教」を中心とする東アジア政治思想の蓄積に深甚たる興味を抱いている。そのことについて既に幾つかの書き物の中でも言及しており、また、その関連でダニエル・A・ベルの著作の翻訳もやっている。

 ふと思い出したが、学部時代、今は亡き鴨武彦教授の国政政治ゼミに応募した際、入ゼミ試験があり、その試験は、当時“Foreign Affairs”誌(1993年夏号・・・20年前?!恐ろしい・・・)に掲載されたばかりのハンティントンの「文明の衝突」論文を題材にエッセイを書くというものだった。試験当日、私はたまたま事前に英語版の当該ハンティントン論文を読んでいたので、自信満々で答案を書いたのだが、結果は・・・見事に落ちたのであった・・・(汗。。

 あれ何の話だっけ?・・・あ、そうそうハンティントン。当時、「文明の衝突」論文を読んだ時には、「儒教文明圏」とか出ていているのを見て「このオッサンの妄想すげえな」とか思っていたのだが、今にして思えば、ハンティントンには先見の明があったのだ。当時のわたしは、まだ冷戦的マインドセットから全く脱し切れていなかったのだった。

 この夏、呻吟しながら訳しているベルの“China's New Confucianism”は、上記で與那覇さんが言うところの「普遍性」を持った(統治)原理としての儒教を称揚するもの(そして、それをマルクス・毛沢東主義に代わる統治原理として中国政府が採用することを主張するもの)なのだが、このベルの話と與那覇さんの話を繋げてみると、更に面白い話になるかもしれない。今回のエントリーにまつわる話は、この翻訳の末尾に付す予定の「解説」の中で改めて書くことが出来ればとも思っている。

 

 というわけで、翻訳に戻らねば・・・。