『日本思想史講座』第4巻:近代(1)....たぶん、続く

日本思想史講座(4)近代

日本思想史講座(4)近代

 同僚の河野有理先生より最近シリーズ刊行された『日本思想史講座』第4巻を頂いたので、早速、読み始めてみた。
 先ずは、苅部直先生の「総論 近代の思想」。劈頭、「思想家番付のこころみ」というお題で始まりワクワクしてたら、日本近代思想史の「通説」を数値化するため、おもむろに『倫理用語集 改訂版』(山川出版社)での登場頻度数が参照され始め、思わず噴き出してしまう。あとは実際に読んでのお楽しみ、ということで。

 次は、河野有理「「演説」と「翻訳」」。副題は「「演説合議の社」としての明六社構想」。とても面白く私自身の研究にも関わりがあるので、以下、メモも兼ねて少し詳しく紹介する。
 これに関係すると思われる私の書いたものは、ナカニシヤ出版から出ている、井上達夫編『公共性の法哲学』に収録された「立法過程における党派性と公共性」。自分が書いたものの中で我ながら一番、気に入っているものの一つである。端的に言うと、その中では「熟議(deliberation)」批判をしている。

公共性の法哲学

公共性の法哲学

 それはさておき、この河野論文は、冒頭、明治に入ってから、にわかに巻き起こった「演説」ブームの話から始まる。翻って、同時代の中国には演説の文化は存在せず、梁啓超は当時の日本の「演説熱」に衝撃を受けたとのこと(「日清戦争敗北の原因だ!」とも)。
 このブームの仕掛け人は福沢諭吉。「演説」は福沢の手になる《speech》の訳語であった。そして明六社が、その最初の舞台の一つとなった。しかし、同じく明六社同人であった阪谷素(さかたに・しろし)は、これに対して疑義を唱える。当人が(歯がないこともあり)演説下手だったことはさておき、儒学者である阪谷は「道」の実在を信じ、「道」を求める手段として「合議」に信頼を置いたのであった。阪谷にとって「演説」とは、この「合議」の手段でしかない。しかし、それは、ベストな手段なのだろうか?阪谷の結論は、「演説」ではなく「翻訳」をというもの。それは「演説」に問題があるからだ。
 演説の何が問題なのか?それは演説が手段ではなく目的化し、空理空論を弄ぶこととなるからである。宮崎滔天が夢破れて後、「浪花節語り」に転身したり、板垣退助が講談師の鑑札を取るよう勧められたりした話とか、思わず「ほほぉ」という話もテンコ盛り。さらに「演説」は「演歌」の起源とのこと!(娘義太夫の話まで出て来る。--どーする!どーする!)
 阪谷は、「聴衆を魅了」する福沢に疑いの目を向ける。確かに福沢は見事な「演説家」。しかし、彼は本当の意味での、よき「討論者」なのか、と。福沢にとっての「討論」とは《debate》。これは当節流の「ディベート」であって、要するに自分が信じてもいない立場であっても「pro/con」を仮設し、その場でいずれにでもコミット出来るというアレ。阪谷は、これに対して「人を馬鹿にした」ようなものを感じた(余談:J.S.ミルの『自由論』にも登場する「悪魔の代弁人(devil's advovate)みたいなのは、どう考えるんだろうか?)。
 福沢に体現された「落語芸能」のような「演説」やゲームとしての「討論」ではなく、それらこそが阻む「合議」の“実質化”を阪谷は目指す。ただ、『明六雑誌』誌上でも議論はよく空転した。たとえば森有礼の「妻妾論」をめぐる論争。そこで最もアキュートな問題として登場するのが「言葉の意味(字義)」をめぐる問題。たとえば「男女同権」という時の「権」とは何なのかとか。そこで、阪谷は「合議」を実質化するため「字義」を定める必要から、「翻訳合議」を論じることとなる。
 「自由」・「権利」・「文明」など近代化以降に西洋語を翻訳した語は多いが、福沢や阪谷の頃は訳語が定まっておらず、訳者の和漢洋に通じていることによって何とかクオリティが担保されている危うい状態。和漢の蓄積が忘却の彼方に失われてしまう時は、忘れ遠くない・・・。 昔は、「会読」をしていたではないか!これだ!(阪谷)。
 ここまでが方法論に関する話で、その方法を使って実地として政治おける「教」という言葉について考えてゆく話に、後段、突入してゆく。この実地ケースは、しかし、上述の「演説」→「討論」→「合議」→「翻訳」→「会読」という流れ全体に対しても遡及的に懸かってくる問題であり、ここからの話の転調は、それまでの本論の文脈にするりと陥入するが如く展開しつつ、その脈絡自体を覆うといった風情で、一読、感嘆である。
 後段の詳しいことは、後日、開催される或る研究会で質問しようかとも思っているので、それについては、また別の日に。
 ちなみに、本書に収録されている論文で注目しているのは、下記の2つ。これらについても、また時間のある時にまた別途。

 松田宏一郎「福沢諭吉と明治国家」
 與那覇潤「荒れ野の六十年」

 與那覇論文は、途中まで読んでいるのだが、今回はグルーヴ感が凄い。余りに夢中になって読んでいて、途中で呼吸が止まっているのに気が付き、思わず咽せてしまったほどだ。與那覇さんは『「中国化」する日本』以降も色々書かれているが、(僭越ではあるが)最近のものの中では、これが一番完成度が高いのではないだろうか?