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「学会による政治的意見表明」に関する小文備忘

書評

 思うところあって、高橋和之「学術的「学会」による政治的意見表明に思う」『ジュリスト』No.1213(2001.12.1)を久しぶりに読み返してみた。

 ジュリスト 2001年12月1日号(No.1213) | 有斐閣

 この小文(全3頁)、きわめて滋味深いものなので、以下にその内容をかいつまんで紹介し、もって自分自身のための備忘も兼ねておく。

 著者の高橋和之は1943年生まれで、長らく東大法学部で憲法学を教えた後、現在は明治大学大学院に所属している。わたし自身もかつて教師としての彼の講義(憲法1部)を聴講したが、「国民内閣制論」など大変興味深い研究を行ってきた研究者でもある。

 冒頭に挙げた小文は、高橋自身が所属する学会についての意見の開陳で、そこでは当該学会による「政治的意見表明」が問題とされている。要するに、「学会有志」の名の下に行う「署名」の類の是非が問われているのである。

 高橋はなにがしかの問題の「専門家集団である学会」が発言すれば、「それなりの権威を持ち、説得力も増すかもしれない」としながらも、そもそも、学会という存在は政治的問題への意見表明とは「原理的に相容れない性格を持つもの」ではないかと危惧する。高橋は自身の経験に照らし、以下のように論じている。

 たとえば、学会執行部が政府の特定の政策に反対する声明を「学会有志」名で出したいと提案する。ここでは「有志」とは何なのかが問題となる。語の素直な意味での「有志」とは「純粋に私的な立場で集まった志を同じくする人びと」を指すはずだが、上記のような執行部からの提案における「有志」とは、以下のようなものではないかと高橋は言う。

運営委員会に諮り、執行部が発案・調整の音頭をとり、会員名簿という個人情報を用い、学会の会計で行われる署名集め等の活動が、学会との関係で「私的」なものとは思えない・・・。(p. 2)

 高橋は、実のところ上記のようなものであるところの「有志」声明が出されることは、かかる声明が対外的に当該学会の「支配的・代表的見解」だという印象を与えることを危惧し、また、同時に対内的にも深刻な問題を惹起すると論じている。

 即ち、上記のような形で表明された見解(有志声明)が学会の「正統」として公定され、これに異論を持つ者は、英国国教会型の政教分離とアナロジカルな「容認」的寛容(お情け)の対象とされるに過ぎなくなるからである。

 結論として高橋は、上記のような英国国教会型ではなく厳格分離型に則り、「政治的コミットメントに対し中立の立場を貫くことこそ、学会の本質」だとする。

 この小論は、1998年、実際に高橋自身が所属学会で「有志」声明(署名)活動に反対の声をあげ、上記のような見解を事務局に「意見書」として送付した顛末こそが、実に興味深い読みどころでもある。
 
 高橋は自らの「意見書」を、声明の署名を求めるために発送される事務局からの郵便に同封することを要求した(パブリック・フォーラム)が拒否され、結果として、声明活動に要した費用分につき会費納入を拒否し続けたのである。「そのうち会費未納で除籍処分にされるのではないかと危惧しているが・・・」というオチには、昔読んだ際、思わず笑ってしまったのを久しぶりに思いだしたのだった・・・。

 本論末尾では、実際に行われた声明(署名)活動において、事務局から来た葉書が、賛否を問いつつ、氏名を公開することも選択可能としていることについての極めて深刻な問題提起も行っているが、これについては是非、本文に直にあたって読まれることを勧めておきたい。そこでは、

政治的意見表明を行う学者集団の社会的権力としての抑圧性

 ・・・が論じられている。

 高橋は『現代立憲主義の制度構想』に収録された「補論「戦後憲法学」雑感」の中で、戦後支配的であり続けた憲法学のあり方を「抵抗の憲法学」と呼び、それと対置させる形で「権力を我々のもの」として見る「制度の憲法学」を提唱するなどもしているが、憲法論議が盛んな昨今、様々な意味でインスパイヤリングな議論をしていることの備忘として、このエントリーをアップしておく。 

現代立憲主義の制度構想

現代立憲主義の制度構想