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『日本思想史講座』第4巻:近代(補遺)

書評

日本思想史講座(4)近代

日本思想史講座(4)近代

 過日、徂徠研に参加し、河野論文の合評を拝聴させて頂く。当日は夕刻より韓国からのお客さんがあったので時間的な余裕が無く中座させて頂き、失礼しました。以下、自分用のメモも兼ねて。

 質問は、主として河野論文末尾の p. 56-57 辺りをめぐる話。

 阪谷は「翻訳」を重視し、「徹頭徹尾「合議協力」の場」として「民選議会」を理解する。この「合議」は、「演説」によるパフォーマンスや「利害得失」の調整などではなく、「翻訳」をモデルとした「討論」。「討論」=「専門家同士の真摯な議論」(阪谷の議会モデル)。(p. 56 のまとめ)

 私からの質問。「議会」における「翻訳」→「討論」というところが良く判らない。河野論文によるなら、阪谷は「「合議」が成立する条件を考え続けようとした」のであるが、そのような《条件》としての「翻訳」ということからすると、下記のようなことを想起した。

 「演説」的なものではない形で上記のような「討議」を成立させるのは、例えば議会の運営を定めた「議事規則」とか?例えば、阪谷と同時代に『ロバート議事手続集』(1876)とかも成立している。今でも青年会議所とかで、これ使って勉強してると仄聞している(The vulgarity is to be tamed by procedural justice?)。基本線は「手続き法」的な意味でのデュー・プロセスの精神?--これは一般人にはたいそう評判が悪い。「法匪」的印象を与えるらしい(cf. 法制局談義)。--これに対し、「演説」の方は、各大学弁論部などに生き残り、経世会・清和会などへ・・・。しかし、弁論部も、何故、慶應ではなく早稲田?(cf. 酒井順子の「近まさり/遠まさり」の問題)

 翻訳=法案の文言の解釈・審議では?という意見も。

 神島二郎『日本人の発想』:戦前最も演説が上手かったのは鶴見祐輔(超絶的)。しかし、聞いて気分が昂揚した後、すぐに何を言っていたか忘れてしまう・・・。これと対極なのが右翼の「無言の雄弁」たる頭山満とか。

日本人の発想 (1975年) (講談社現代新書)

日本人の発想 (1975年) (講談社現代新書)

 阪谷の「翻訳」は、真理へと到達するための無限の追求=J.S.ミルの discussion 的なもの?その線からすると、阪谷の話は、ミルの言う「立法委員会」的なものを想定しているのかもしれない。

 議会で「翻訳」の話を本当にやってしまった話を昔、書いた。上記、鶴見祐輔の息子・俊輔による分析を換骨奪胎したもので、何となく感慨深い。