三多摩帝国の逆襲/武蔵野インディアン vs. 東京白人

 日経新聞の8月25日版に「吉祥寺・町田は昔、神奈川県だった/知事が捨てた街 」という記事があり、ネットでも話題になっていた。記事は、三多摩が東京府(当時)に移管されてから今年で120年の区切りということで書かれたものである。

 記事:http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK21022_R20C13A8000000/

 当該記事は、以下のように始まる。

 大学時代、友人に「東京を出て多摩川を越えたら神奈川県」と教えられたことがある。西日本出身者としては素直に信じていたのだが、実際に当てはまるのは一部だけ。中流域では「多摩川を越えても東京都」だ。しかしかつては違った。八王子や町田、多摩川の手前にある調布や成城、吉祥寺も神奈川県だった。なぜ東京になったのか。事情を探っていくと、長年の課題である水源問題と、複雑な政治事情が浮かび上がってきた。

 これ以降の記事本文にもある通り、知っている人には当たり前の話なのだが、水源問題と自由民権運動の問題から三多摩は東京になったのであった。実は、この経緯や背景については、1982年に書かれた三浦朱門の『武蔵野インディアン』という連作小説の中で、活き活きと描き出されている。

武蔵野インディアン (1982年)

武蔵野インディアン (1982年)

 三浦は、元文化庁長官かつ曾野綾子の夫であり、わたし自身、そういう認識しか持っていなかったのだが、川本三郎の傑作『郊外の文学誌』を読んでいたら、この小説が紹介されていた。三多摩に住まう人間としては、実に、実に面白い小説だった。

郊外の文学誌

郊外の文学誌

 小説は、東京から三多摩に越して来た三浦自身をモデルとする主人公と、彼を取り巻く「多摩の豪族」たちとの交流を描き出している。余りに面白い箇所が多いのだが、以下、幾つか印象的な箇所を抜粋して、掲載しておく。

 

●「お前たちは、御維新後、都になった東京にやってきた東京白人よ。おれたちは原住民武蔵野インディアンよ。」[84]

●「その武蔵野で王者となったのが我が祖先だ」[86]」

●「お前ら、どいつもこいつも天皇の私生児の子孫だろうが。オレは違うぞ。オレはだな、世が世ならば、天皇と五分だ」[86]」

 

 三多摩古代王朝である。

 

●「おい、日清戦争の前の年まで、今の東京都下は神奈川県だったのを知っているか。都内に対して都外というならわかる。都の外だから、なら、多摩県でもいい、神奈川県でもいい。しかし都下という言い方、いかにも東京白人の発想だ。植民地扱いじゃないか。まるで・・・」[98]

 

 確かに「都下」という言葉は失礼である。

 

●「昔はなあ、江戸なんてものもなかったのよ。中心は鎌倉で交通網は鎌倉街道よ。鎌倉からの道が、厚木や、武蔵の府中、八王子、秩父、足利なんかをつないでいたのさ。これが昔のシルク・ロード。だから明治になって、横浜とつなぐルートは新シルク・ロードさ。みんな絹と関係のある町さ。今でもナイロンで女の靴下を作ってる町もあるけど、とにかく、道は山ぞいについていたのさ。江戸はなあ、新開地でね、それもよそ者の作った城下町よ。村野なんてのは、尾張のお鷹場の管理人というんで、捨扶持をもらってたもんで、徳川さまさまだけどさ」[98-99]

 

 多摩センターなんかで、この「絹の道」というのに関連したイベントなどよくやっている。あと、確かに江戸時代以前は、江戸は何もない。左卜全・・・じゃなくて塚原卜伝も修行のために西へ旅した時、房総半島から鎌倉までは船で行って、湿地帯でしかない江戸にあたるとこはすっ飛ばしていたな。

 

●(砂川市長)「うん、そういう所もあるなあ。おれが歴史の教科書で、十五代将軍、徳川慶喜は、なんて読むと、『公』の字を補って読めと叱られたもんなあ」[98]

 

 八王子千人同心とかもそうだなのだが、ここいらは徳川恩顧の人たちが多い。後でも出て来る通り、新撰組などまさにそう。今でも調布あたりは「土方」という名字のひとが居る。

 

●「だからな、明治の三多摩の自由民権なんてのは、つまり名目でな、要するに東京ぎらいということでな、大体が、あの時、藩閥政府にたてついた自由党民というのは、新撰組の生き残りや、その息子だもんな」[99]

●「・・・三多摩はどちらかというと、神奈川と縁があったのよ。多摩川沿いの甲州街道はありゃ、徳川が、甲州との関係で作ったのよ。地元とは関係ない」[105]」

 

 確かに甲州街道というのは五街道の中では変な街道で、参勤交代に使う藩はほんの幾つかしかない。ものの本で読んだ話では、甲州街道は、いったん江戸に火急の事態が起こった際に徳川宗家が直近の(絶対に信頼出来る)親藩たる甲州・甲府に脱出(evacuate)するための経路であって、四谷の木戸を出た先の新宿百人町に鉄砲隊を置いておき、それらを引き連れて速やかに脱出することを期していたのだ、とか。

 

 とか何とか、色々と思いながら読んだのだが、ふと思ったのは、そうであるのならば、1912年から続いた八王子の呉服屋(荒井呉服店)の娘だった松任谷由実が、デートの帰り、カレシに車で「調布基地」を横目に見ながら送られた道は、脇道である徳川様の甲州街道ではなく、字義通り、自由民権の地へと直通する堂々たる「中央《フリー》ウェイ」だったということか、とも思ったのであった。


中央フリーウェイ 松任谷由実 - YouTube

 ユーミンの歌の中に登場する「調布基地」は、当時のユーミンの舞台衣装がアーミールックであることからも察せられるように米軍基地だったのだが、元々は旧軍の航空基地であり、帝都防衛のための「禁闕守護」部隊が置かれていた。

 参考:陸軍飛行第244戦隊概史 http://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/sentaisi.htm

 

 遡るなら、三多摩は律令制下において、防人の産地であり、彼らは多摩の横山を通って北九州へと渡り辺境の防御の任にあたったわけであるが、その遠い遠い子孫かもしれぬ私(父母は小倉と八幡出身なのだ)が再び還り来て三多摩に住み、多摩の横山を切り崩した大学で教鞭を執っているというのも、何とも言えない因縁を感じざるを得ない。

赤駒を/山野にはがし/捕りかにて/多摩の横山/徒歩ゆか遣らむ

宇遅部黒女『万葉集』巻二〇の四四一七

  蛇足ではあるが、三浦の三多摩体験は2001年に『武蔵野ものがたり』というタイトルの新書として刊行されている。

 

※付記:エントリーをアップし終わって思い出したが、島田雅彦が『忘れられた帝国』という小説の中で、まさに上記と同様のモチーフを描いていた。