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「学会による政治的意見表明」に関する小文備忘

書評

 思うところあって、高橋和之「学術的「学会」による政治的意見表明に思う」『ジュリスト』No.1213(2001.12.1)を久しぶりに読み返してみた。

 ジュリスト 2001年12月1日号(No.1213) | 有斐閣

 この小文(全3頁)、きわめて滋味深いものなので、以下にその内容をかいつまんで紹介し、もって自分自身のための備忘も兼ねておく。

 著者の高橋和之は1943年生まれで、長らく東大法学部で憲法学を教えた後、現在は明治大学大学院に所属している。わたし自身もかつて教師としての彼の講義(憲法1部)を聴講したが、「国民内閣制論」など大変興味深い研究を行ってきた研究者でもある。

 冒頭に挙げた小文は、高橋自身が所属する学会についての意見の開陳で、そこでは当該学会による「政治的意見表明」が問題とされている。要するに、「学会有志」の名の下に行う「署名」の類の是非が問われているのである。

 高橋はなにがしかの問題の「専門家集団である学会」が発言すれば、「それなりの権威を持ち、説得力も増すかもしれない」としながらも、そもそも、学会という存在は政治的問題への意見表明とは「原理的に相容れない性格を持つもの」ではないかと危惧する。高橋は自身の経験に照らし、以下のように論じている。

 たとえば、学会執行部が政府の特定の政策に反対する声明を「学会有志」名で出したいと提案する。ここでは「有志」とは何なのかが問題となる。語の素直な意味での「有志」とは「純粋に私的な立場で集まった志を同じくする人びと」を指すはずだが、上記のような執行部からの提案における「有志」とは、以下のようなものではないかと高橋は言う。

運営委員会に諮り、執行部が発案・調整の音頭をとり、会員名簿という個人情報を用い、学会の会計で行われる署名集め等の活動が、学会との関係で「私的」なものとは思えない・・・。(p. 2)

 高橋は、実のところ上記のようなものであるところの「有志」声明が出されることは、かかる声明が対外的に当該学会の「支配的・代表的見解」だという印象を与えることを危惧し、また、同時に対内的にも深刻な問題を惹起すると論じている。

 即ち、上記のような形で表明された見解(有志声明)が学会の「正統」として公定され、これに異論を持つ者は、英国国教会型の政教分離とアナロジカルな「容認」的寛容(お情け)の対象とされるに過ぎなくなるからである。

 結論として高橋は、上記のような英国国教会型ではなく厳格分離型に則り、「政治的コミットメントに対し中立の立場を貫くことこそ、学会の本質」だとする。

 この小論は、1998年、実際に高橋自身が所属学会で「有志」声明(署名)活動に反対の声をあげ、上記のような見解を事務局に「意見書」として送付した顛末こそが、実に興味深い読みどころでもある。
 
 高橋は自らの「意見書」を、声明の署名を求めるために発送される事務局からの郵便に同封することを要求した(パブリック・フォーラム)が拒否され、結果として、声明活動に要した費用分につき会費納入を拒否し続けたのである。「そのうち会費未納で除籍処分にされるのではないかと危惧しているが・・・」というオチには、昔読んだ際、思わず笑ってしまったのを久しぶりに思いだしたのだった・・・。

 本論末尾では、実際に行われた声明(署名)活動において、事務局から来た葉書が、賛否を問いつつ、氏名を公開することも選択可能としていることについての極めて深刻な問題提起も行っているが、これについては是非、本文に直にあたって読まれることを勧めておきたい。そこでは、

政治的意見表明を行う学者集団の社会的権力としての抑圧性

 ・・・が論じられている。

 高橋は『現代立憲主義の制度構想』に収録された「補論「戦後憲法学」雑感」の中で、戦後支配的であり続けた憲法学のあり方を「抵抗の憲法学」と呼び、それと対置させる形で「権力を我々のもの」として見る「制度の憲法学」を提唱するなどもしているが、憲法論議が盛んな昨今、様々な意味でインスパイヤリングな議論をしていることの備忘として、このエントリーをアップしておく。 

現代立憲主義の制度構想

現代立憲主義の制度構想

 

 

 

「集団的自衛権祭り」への冷ややかな雑感

法哲学

 衆院憲法審査会での憲法学者による違憲発言以来、「集団的自衛権祭り」とでも言うべきものが活況を呈しているが、ともすれば強力な磁場に捉えられ、「友/敵」的かつ不毛な議論になりがちなところ、以下、備忘を兼ねて twitter で記したものなども含め記し留めておく。

 6月15日(月)「報道ステーション」が、安保関連法案について、判例百選の執筆者198人に対して行ったアンケートの結果を公表し、うち151人が回答。個人的には、198-151=47人に目が行ったが、あら、四十七士とは・・・アンケート結果は以下の通りである。

 報道ステーション

 このアンケート、違憲判断を示した者のうち原理主義的護憲派(そもそも自衛隊の存在自体が違憲)は、どれくらい居るのだろうか、とも。長谷部流の修正主義的護憲派(自衛隊+安保条約=合憲)と、その間には本来、大きな溝があるはずだろう。

 追記だが、長谷部氏の現在の立場は、1998年に行われた全国憲法研究会春季大会での報告を元にした「平和主義の原理的考察」『憲法問題』(10号、1999年)で最初に公表され、のちに『憲法と平和を問いなそす』(ちくま新書、2004年)で一般向けにまとめ直されている。 

憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)

憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)

 

   原理主義~、修正主義~は、井上達夫の用語法なのだが、今般の件に関して、改めて井上の「九条問題再説」(『法の理論』33号所収)を読み、わたし自身は井上の議論が最も適切であると改めて感じた。つまり、「九条削除」論である。これに関しては、是非、井上の論攷に直接あたられたい。このエントリーで記すには長すぎるので、先ずは、後段であげる井上の新著を読まれることをオススメする。

● 井上達夫「九条問題再説」『法の理論』33号、成文堂

 http://www.seibundoh.co.jp/pub/search/028486.html

 ごく簡便 な形での井上達夫の「9条削除論」は、以下のリンクなどを参照されたい。

blogos.com

 

 集団的自衛権そのものに関しては、元同僚の森肇志(国際法)が以下のように、幾つかの場所で非常に分かりやすく説明を行っているが、これに同意する。最初の神奈川新聞の記事は、インタビュアーの姿勢に相当な疑問を感じ、インタビューを受けている方も大変だったのではないかと深く同情する。

www.kanaloco.jp

www.nikkei.com

 

 少し前の『アステイオン』(2014年81号)に掲載された苅部直の「新しくない憲法の話」も参考になる。苅部は、「集団的自衛権祭り」に対して冷ややかな視線を投げかけているが、これには全くもって同感である。

 この中では、佐瀬昌盛『いちばんよくわかる集団的自衛権』(海竜社)が紹介されているが、昨日の報道ステーションを観たあと、私じしん改めて読み返したところ、まことに納得がゆく内容であることを再確認した。 

いちばんよくわかる集団的自衛権

いちばんよくわかる集団的自衛権

 

  また、上記と合わせて鈴木尊紘「憲法第9条と集団的自衛権--国会答弁から集団的自衛権解釈の変遷を見る」『レファレンス』2011年11月号も参照されたい。

 http://ndl.go.jp/jp/diet/publication/refer/pdf/073002.pdf

  苅部氏が書かれたものとして、出てから1年以上経っているのではあるが、以下もとても参考になる。

www.nippon.com

 報ステのアンケートに関しては、自由記述欄の中のめぼしいものを幾つか読んだが、片桐直人(阪大)、浅野善治(大東文化)の両氏のコメントに浅からぬ見識を感じた。

 片桐:http://www.tv-asahi.co.jp/hst/info/enquete/17.html
 浅野:http://www.tv-asahi.co.jp/hst/info/enquete/31.html

 

 しかし、何人かの人も指摘しているように、このような「踏み絵」的なものが、無前提に肯定されるべきだろうか。アンケートに関連して、以下のようなものもあった。判例百選の著者悉皆一覧をつくっているのである。このような一覧を目にすれば、件のアンケートの「踏み絵」性が良く分かるのではなかろうか。 

 森の人:憲法判例百選執筆者一覧 & 安保法制の合憲性 - ブログ

 「盛り上がっている」人びとは「立憲主義」の何たるか、或いは「学問の自由」について、もう少し冷静に考えるべきである。よもや天皇機関説事件を忘れてはいないだろう。

  ・・・その後、6月23日、千葉大の小林正弥教授(政治哲学)は、国政調査権の発動による全憲法学者の当該問題に関する意見調査を行うべきだとの提言を行うに至っている。予想の斜め上を行く展開である。

www.asahi.com

  大切なことなので繰り返しになるが、井上達夫の「九条問題再説」は是非多くのひとに読まれることを望みたい

 ・・・ その後、下記の『リベラルのことは嫌いでも~』を入手して読んだが、この中では「九条削除論」が非常に分かりやすい形で提示されてはいるものの、「九条問題再説」の方が圧倒的に詳細なので、出来る限り、そちらも読むことを(是非)薦めたい。

リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください??井上達夫の法哲学入門

リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください??井上達夫の法哲学入門

 

  以上については、改めて活字化されたものを遠からず書こうと腹を括ったが(そのような腹を括らねばならない言論空間自体がオカシイ)、今般問題になっているような安全保障をめぐる議論が、独り憲法解釈学の観点のみから喧喧諤諤されている状況は健全とは言い難く、より広く、国際法、国際政治、政治史、政治学などの観点からも複合的に議論されるべきだと強く思い、また、そうなることに希望を繋ぎたい。

 

 追記:その後、雑誌『en-taxi』2015年 Vol. 45に「「九条問題再説」

~欺瞞を超えて」という小文を寄稿した。趣旨は、このエントリーと同旨である。

f:id:Voyageur:20150903090938j:plain

en-taxi,田中小実昌――あても正体も捨てて探すひと|雑誌|扶桑社

 

 

追記:井上達夫『リベラルのことは嫌いでも~』については、池内恵氏による以下のエントリーが参考になる。

ikeuchisatoshi.com

 

ぶっ殺したい鳥

身辺雑記

 極めて不穏当なタイトルで申し訳ないが、以下。

f:id:Voyageur:20150611185647j:plain

 以前もtwitterの方で書いたことがあるのだが、自宅で朝寝ていると、外から凄まじい大音量で「ギャーーーギャーーーギャーーー」と鳴く鳥の声が聞こえてくる。「ギョィェーーーーーー! ギュィッ!ギュィッ!ギュィッ!ギュィッ!ギュィッ!」とか「ゲーーーーッ!ギーーーーッ!」だったりもする・・・。

 朝4時とかにだよ・・・

 本当に心の底から「殺してやる!」と、自分にココまでの殺意というものがあったのかと思わされる程の凄まじく汚らしい大音量の鳴き声なのである。

 この鳥の名前をすぐに忘れてしまうので、備忘を兼ね、その名を記しておくが、これは「オナガ」という鳥である。

  Wikipediaを見ると、「尾長、学名:Cyanopica cyana)は、スズメ目カラス科に分類される鳥類の一種である。」とのこと。

www.suntory.co.jp

 上記サイトにもある通り、「黒とブルーグレイの姿をひらひらさせて水平に飛ぶさまはエレガント」なのだが、一見洒脱なコートを着た紳士然としたその姿からは全くもって想像も付かない汚らしい鳴き声をその特徴とする。こいつはカラスの仲間なのだ!

 アタマのおかしいオバハンをトラックで5回くらい往復して轢き殺したような鳴き声なのである!!!

 エアガンでも買って叩き殺そうかと思ったことも何度かあるが、地元の警察署の安全・安心メールとかに「大学教授と名乗る男、早朝5:00時頃、寝巻姿のまま意味不明のことを喚きながら木にエアガンを乱射との情報。」とか書かれたくないので、自重。

 下記も参考になる。

bunkabito.jp

 余りに巨大な憎悪に支えられた殺意には、的確な方向を与える必要があると考えるところ、以上、記し留めておく。

 

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中島恵『なぜ中国人は日本のトイレの虜になるのか?』--単純な日本自賛本にあらず

書評

 中公新書ラクレの中島恵『なぜ中国人は日本のトイレの虜になるのか?』読了。 

  副題も「「ニッポン大好き」の秘密を解く」と、やや煽り気味なのだが、中身はタイトルなどに反して、いっそ清々しいと言っても良い内容だった(最近流行りの自国日本の贔屓の引き倒し本では、毛頭ない)。

 本書で焦点化されているのは「日本への憧れ云々」という話よりは、むしろ《或る種の》普通の中国人の等身大の姿と、日本の我々の暮らしと比して想像しにくい、彼らの中国での生活の困難さである。
 ここで《或る種の》と限定を付したのは、この本の中で登場する中国人の恐らくほとんどが以下に記す「都市戸籍」を持っていたり、或いは、筆者と接触するような環境(ex. 日本への留学経験 etc.)にいる点で、必ずしも「平均的」もしくは「中央値」の中国人像ではないだろうからなのだが、これは本書の価値を損なうものではない。
 個人的に最も興味深かった点は、「農村戸籍」と「都市戸籍」について考える際、後者は更に「団体戸籍」と「個人戸籍」に分類されるという点だった。これに関しては、中国人の友人から以前聞いて今ひとつ正確に理解出来ていなかったのが、完全に理解出来、大変スッキリした。
 詳細は本書を読むに如かずなのだが、「団体戸籍」は、1)学校集体戸籍、2)駐在員事務所集体戸籍、3)勤務先集体戸籍に分かれているとのこと。私が友人から聞いて「???」となっていたのは、この中の「学校集体戸籍」だったのだな、と。
 あと読んでいて驚いたのは、京セラの稲盛和夫が中国人経営者の間では教祖的存在として祭りあげられており、中国の大書店に行くと彼の本が山のように積まれているという話。アリババの創業者であるジャック・マー(馬雲)も稲盛の信奉者であるというのは実に驚きである。稲盛に関しては次のような記述がある。

彼の経営哲学には中国の古典に由来するものが多く、中国人にも親しみが持てるうえ、中国人よりも深く古典を理解していることが尊敬の念を集めている。[155頁]

 ・・・とするなら、渋沢栄一とか安岡正篤なども、現代中国のイケイケのビジネスマンに受け入れられる素地があるということだろうか?!事の是非はともかくとして、興味深い。

 冒頭でも述べた通り、やや扇情的?なタイトルとは全く裏腹に、本書の筆致は淡々としつつも品位の感じられるもので、昨今、書店の棚を賑わせる嫌中・反中本などとは一線を画した大変良心的な佳品である。わたし自身、読みながら何度か(爽やかな)感慨を催す部分があった。
 以前、反日デモが燃えさかった頃に出た『在中日本人108人の それでも私たちが中国に住む理由』(CCCメディアハウス)を読んだ際に感じたのと同じような好感を持った。

在中日本人108人のそれでも私たちが中国に住む理由

在中日本人108人のそれでも私たちが中国に住む理由

 

  本書を読めば、新聞や週刊誌などで目にし、もはや飽き飽きしつつある紋切り型的な中国(人)像から一歩、適切な距離を置くことが出来るだろう。すぐに読み終えられ、読後爽快なので、ちょっとした時間に、是非どうぞ。

 

追記:本エントリーをアップした後に、本書著者による戸籍に関する文章がアップされていたので、以下を参照されたい。

toyokeizai.net

 

中国皇帝をめぐる人類最大の権力闘争--『十三億分の一の男』

書評

 峯村健司『十三億分の一の男』読了。評判の高い本だったので読もう読もうと思っていたのだが、やっと読めた。 

十三億分の一の男 中国皇帝を巡る人類最大の権力闘争

十三億分の一の男 中国皇帝を巡る人類最大の権力闘争

 

  副題は「中国皇帝を巡る人類最大の権力闘争」となっているが、まさにその通りの内容で、いずれ三国志か水滸伝かともいうべき、壮大な国盗り物語。高島俊男先生の名著『中国の大盗賊・完全版』を思い出すなど(これ読んでないのは人間ではない)。 

中国の大盗賊・完全版 (講談社現代新書)

中国の大盗賊・完全版 (講談社現代新書)

 

  信じられないくらい読みやすい本で、著者の筆力に脱帽。この本の筆者も1974年生まれと、ほぼ私と同級生で、最近、この辺りの年代のひとの書いた優れたノンフィクションが多いのを改めて確認した。

 朝日新聞は色々とやらかしており、下記の本など読むと本当にアレだなと思っていたところではあるのだが、この本を読むと新聞社というものの底力を見た気がした。 

朝日新聞 日本型組織の崩壊 (文春新書)

朝日新聞 日本型組織の崩壊 (文春新書)

 

  閑話休題。

 大枠で、毛沢東、鄧小平、江沢民、胡錦濤に続く第五世代の権力闘争を描き出しているのだが、その前史たる江沢民×胡錦濤の血みどろの闘争も整理されており、大変タメになる。わたし自身が持っていた胡錦濤への印象についても、理解が深まった。

 とても良く覚えているのだが、以前、胡錦濤が訪日した際、早稲田の大隈講堂の前に反対派が押しかけ「コッキントウ、人殺し!」というシュプレヒコールを挙げているのを見て「何と愚かな」と思っていたものだが、このような私の判断が正しかったことを改めて確認した。

 本書を読みながら思いを致したのは、日中の政治家の違い、ということに尽きる。かたや革命の元勲を父に持ったりするものの、文化大革命や下放などで辛酸の限りを舐め尽くし、激烈な出世競争を勝ち抜いて来た人びとであるのに対し、わが国の政治家はどうか。そのような過酷な競争を勝ち抜いた者でなくとも、平穏無事に「統治」にあたれるというのも、また別種の幸せなのかもしれないが。

 薄熙来の息子の薄瓜瓜がオックスフォード大学で政治哲学を学んだという興味深い話が出ていたが、それによるなら彼は、「『儒教と共産主義を融合した新しい政治観を築きたい』と夢を語っていました」[68]とのこと。誰の下で勉強していたのだろう?

 これまで色々なところで口づてで聞いていた大連時代の薄熙来の話や、彼が逮捕されるに至った経緯、アメリカの二奶村の実情、尖閣国有化や習近平の天皇面会の際の中国側での暗闘の経緯、李克強の人となりなど、実に興味深い事柄について惜しげ無く書かれており、とにかく大変勉強になった。

 現代中国政治を知る上で必須の本だろう。

追記:梶谷先生による行き届いた書評があったのを忘れていた。ジニ係数の話のトコとかは大変タメになる。

2015-03-30 - 梶ピエールの備忘録。

 

鈴木静男『物語 フィリピンの歴史』メモ

書評

 

物語 フィリピンの歴史―「盗まれた楽園」と抵抗の500年 (中公新書)

物語 フィリピンの歴史―「盗まれた楽園」と抵抗の500年 (中公新書)

 

1)先スペイン期

●サンスクリット系の文字が存在:「残念なことに、このフィリピン版の竹簡や葉簡は、熱帯の暑気に耐えられず、すべて自然の姿に戻ってしまった」[4]

●フィリピン人の“出身地”はマレー世界/7世紀半ばにスリウィジャヤ王国/対岸のベトナムでは1世紀頃から扶南王国

●1990年、ラグナ銅板碑文(Laguna Copper-Plate Inscription:LCI)が出土。碑文の文字はサンスクリット系の「早期カウィ文字」

●1494年のドリデシリャス会議(スペインとポルトガル/地球の東西分割)

●マニラの語源=「マイニラッド(Maynilad)」:海岸に生えるニラッドという幹の滑らかな木に由来/「マイ」は存在を表し、「ニラッドのあるところ」という意味

コメント:スペインが来るまでの歴史がほとんど分からないというのに心底驚いた。 

 

2)333年のスペイン支配

●1521年のマゼランのセブ島到着

●エンコミエンダ制:フィリピン占領に功績のあったスペイン人に一定区域内の原住民の管理を任せ、貢税の徴収とキリスト教の布教を担当させる
●フィリピン経済を破壊したガレオン貿易
●カトリック宣教とモロ戦争
●1585年から全民族の抵抗運動が本格化
●中国系メスティーソの勃興と抵抗:生糸市場の支配(ホセ・リサールも)

コメント:スペインが笑えるほど無能で有害であるのに驚いた。アホ杉。


3)フィリピン革命

●リサール『ノリ・メ・タンヘレ』
●1892年、ボニファシオを中心とした革命家集団=「カティプナン(人民の子らの最も尊敬すべき至高の協会)」

「革命的であったリサールの論説が、中江兆民の『三酔人経綸問答』ばりに見える・・・リサールは、ときに「豪傑君」であり、「洋学紳士」であったが、肝心なところでは物わかりのよい「南海先生」に後退してしまうのだ。ところが「カティプナン」は、植民地主義者による政治改革に幻想を抱かず、武力蜂起によってそれを達成しようとしていたのである。」[102-103]

●アギナルド ビアクナバト共和国の大統領に就任

 コメント:ホセ・リサールの本を読むこと。 

ノリ・メ・タンヘレ―わが祖国に捧げる (東南アジアブックス―フィリピンの文学 (1))

ノリ・メ・タンヘレ―わが祖国に捧げる (東南アジアブックス―フィリピンの文学 (1))

 
ホセ・リサールと日本 (1961年)

ホセ・リサールと日本 (1961年)

 

 

4)アメリカのフィリピン占領

●セオドア・ローズベルト「中米問題から太平洋問題へ」
●ルディヤード・キプリング『白人の責務--米国とフィリピン諸島』:「アメリカが成熟したかどうかを試すため、白人の責務が与えられる」

"The White Man's Burden": Kipling's Hymn to U.S. Imperialism

●「友愛的同化(benevolent assimilation)」の虚実
●フィリピン第1共和制・大統領アギナルド
●アーサー・マッカーサーとダグラス・マッカーサー/アーサー(父)=最後の軍政長/ダグラス(息子)=少尉でフィリピン任官~在比米軍司令官

●ケソン・米自治領大統領

 コメント:マッカーサー父子の存在の大きさ。

 

5)日本軍のフィリピン占領とエリートの対日協力

●ラウレル大統領
●ベニグノ・アキノ・シニア:反米的愛国者として対日協力
●東京での大東亜会議:ラウレル

「歓迎会場に入った時、私の両眼からは涙があふれ出た。そして私は勇気づけられ、鼓舞され、自らに言った。十億のアジア人、十億の大東亜諸国民、どうして彼らが、しかもその大部分が英米に支配されてきたのか」[196]

●フィリピンは英米への「宣戦布告」を拒否し続ける

 コメント:面従腹背で民族の独立を如何に守るかという闘い、実に面白い。『勇午』を思い出すなど。 

勇午 フィリピンODA編(1)

勇午 フィリピンODA編(1)

 

 

6)1946年、第3共和政(アメリカから独立)

●キリノ大統領
●マグサイサイ大統領
●天才記者ニノイ・アキノの登場
●マルコス大統領

「マルコスは抜群の頭脳の持ち主だった。フィリピン大学時代のマルコスは、法学部切っての秀才とうたわれ、「ナンバー・ワン」と呼ばれていた。マルコスは、・・・司法試験で、史上最高の平均点92.35点をあげていた。またマルコスは特異な記憶力の持ち主で、フィリピン憲法を最初からでも最後からでも自由に暗誦できたと言われている。誰もマルコスのすることに口を出せなかった理由がこれだ。」[251]

●「フィリピン社会は、1%以下の買弁・地主層、1%の中間的ブルジョワ層、8%の都市プチブル層、15%の工業労働者、75%の農業労働者から成り立っている。人口のわずか2%の上層階級が、フィリピンを支配してきたため想像を超えた富の偏りが生じた」[262]

●ニノイ・アキノ暗殺

●コラソン・アキノの大統領就任

コメント:マルコス興味深い。イメルダも。


第1共和制(アギナルド)
自治領政府=アメリカ支配(ケソン、オスメニャ、ロハス)
第2共和制=日本支配(ラウレル)
第3共和制(ロハス、キリノ、マグサイサイ、ガルシア、マカパガル、マルコス、コラソン・アキノ、ラモス、エストラダ、アロヨ、ベニグノ・アキノ3世)

 

参考:山田美妙『あぎなるど』

 

あぎなるど―フィリッピン独立戦話 (中公文庫)

あぎなるど―フィリッピン独立戦話 (中公文庫)

 
比律賓独立戦話 あぎなるど〈前編〉 (リプリント日本近代文学)

比律賓独立戦話 あぎなるど〈前編〉 (リプリント日本近代文学)

 

 

 

 

 

「就活後ろ倒し」とかへの教員側の雑感

講義関連


 過日、ご縁あって或る大手人材会社の方とお会いし、昨今の大学生の就職/就活状況についてご説明を頂いた。

 最初に断っとくけど、以下、特に私の「所感」に関わる部分は、文系、特に法学部を念頭に置いた話が主なので、その他の学部の話とかはよく知りません。理系とかは別の星の話だしな。あと以下では、しきりに死ぬ死ぬ書いてるけど、別に就活失敗しても死ぬこたないので、その辺りの話はまた別の機会にする。わたしは「死んだら終わり教」なので、死なないように。

 さて、頂いた話のポイントは幾つかあって、大略、以下のような点についてお話し下さった。

1.求人倍率(要するに就活市場の景気)
2.就活時期の後ろ倒し問題(3ヶ月遅くなる)
3.就業観の重要性

 ご説明によるなら、新卒採用における求人倍率は比較的良好に推移して来ており、1991年以降で最高だった2008年と2009年3月卒の「2.14倍」には達しないものの、2011年から急速に落ち込み「1.2倍」近辺をウロウロしていたものが、2015年3月卒では「1.61倍」となり、よほどのことが起きない限り、2016年3月卒に関しても上昇トレンドなのではないかと。但し、いきなり「2倍」とかまでは行かないだろうとのこと。

 「景気動向指数」の動向を、ワンクッション置いて「求人倍率」が後追いする傾向があるとのこと。新卒は3月に一括採用なので、そりゃタイムラグ出るわな、と。ちなみに2008年リーマンショック(9月15日発生)の時はドーンと景気動向指数落ちてるが、それが反映されるのは2009年3月卒ということ。

 このような中、2016年3月卒以降の就活生は、これまでと全く違ったスケジュールで動くということになっており、概略以下のような感じになるらしい。

α:これまで(2015年3月卒以前)

 3年の12月に就活始まる → 早い人は4年のGWまでに内定、夏までやってる人は大変

β:これから(2016年3月卒以降):3ヶ月後ろ倒し

 3年の最後3月に就活始まる → 早い人は8~9月に内定、下手したら12月~翌年3月まで

 

 教える側からすると、要するにコレは「民間企業を志望している学生は4年の前期はゼミ参加出来ませんね」というコトだと理解した。コトの是非はともかくとして、これが現実。
 この辺りのコトは色んな議論があるとは思うのだが、教員側のザッハリッヒな対応としては、ゼミを通年ではなく、前期・後期の2単位ずつに分割し、8月~9月までで就活が終わった学生を後期からゼミに迎え入れ、学生時代最後のノビノビと勉強出来る時間を確保することくらいではなかろうか、とも。

 話は戻るが、上記の就活スケジュールの変更は、あくまでタテマエ上のもので、日本企業でも敢然とコレを無視すると公言しているところもあるし、外資や地方の有力企業などでは、3年最後の3月よりも全然前からリクルートをやってるから、「就活が3ヶ月後ろ倒しになったんだあ」とかボーっとしていると即死とのことだった。色々怖い(ためになる)話も聞いたが、ココには書けないので、私を知ってるひとは直接会った時にでも聞いて下さい。

 上記の話に関連して、私のゼミの卒業生の西村創一朗さんが面白い記事を書いているので、以下参照。

3月1日に解禁になったのは採用活動であって就職活動ではない。 | Now or Never

 以上を踏まえた上でご説明頂いたのは、最初に書いた通り、求人倍率が一見、良好に推移しているに見えるので、それと反比例して学生の就活に関わる「活動量」が有意に低下しているとのこと。要するに「3年最後の3月から就活始まるぜ!」とか思ってたら死ぬよ、ということ。

 結論としては、「就業観」を早めに醸成しないと大変だよ~、というお話で、興味深い図表なども見せて頂いたのだが、これは非公開資料だったので、以下は私が覚えてる限りで、自分の考えも交えて書いておく。

 「就業観」ってのは「どんな仕事をしたいか」とかいう考えを持ってることみたいなんだけど、これまで10年以上、大学教員やって来て、就活が始まった段階で、それがハッキリしてる学生なんてほとんど見たことがない。いや、そりゃ数人は居たし、確かにかなりイイとこに就職したけど、そういうのは変態ですよ。だって3年の早い時期から「ボクは鉄(※電車じゃなくてFeね)にしか興味ありません」とか言ってんだよ(N君、スマン・・・)。

 色々聞いて思ったのは、この「就業観」というのを醸成するためには、ゼミのOB・OGとかと積極的に交流する機会とか、とにかく実際に仕事してるオトナと会って話す機会を増やすしかないな、と改めて思った。ちなみに、大学教員は、そのほとんどがオトナではないコトは言を俟たない。

 以前、何かの記事で慶應はこの点ズバ抜けてて、ゼミの呑み会とかにしょっちゅうOB・OGが来るので、自然と学生が「社会化」されるみたいな話を読んだ記憶があるが、これは本当にその通りだと思った。(慶應のひとは私に何かくれてもイイよ)

 これは就活だけに限られない話で、子どもの頃からどんだけマトモなオトナに会う機会があるかは、文化資本の重大な原蓄(原始資本蓄積)になってるとも思う。

 そういうワケで学生の皆さんは、マトモな社会人とたくさん会って話をする機会を作って下さい。わたしもゼミ生には、その点、出来る限りサポートしますから。オトナは徒手空拳で押しかけてくる若者には意外と親切なモンなのです。

ベルクソンの薔薇

自著

 

 高校生の頃から、かれこれ30年近く愛読して来た(正確には28年)、白水社のフランス語学習雑誌『ふらんす』に短いエッセイを寄稿しました。

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 「フランスと私」というリレー連載の欄で、「ベルクソンの薔薇」というタイトルで載っています(私の前の回は、偶然「我が社の社長」であるところの舛添知事でした)。

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 昔あんなにも憧れた雑誌の表紙に自分の名前があるのは、感無量です。
 エッセイの中にも書きましたが、1980年代後半の九州の片田舎でひとりフランス語を勉強していた話と合わせて、当時の大分のラジオや本屋(パルコブックセンターとか)についての思い出も書きました。

 当時の大分を思い出し、懐かしく読んで頂ける方も居るかもしれませんが、お暇があれば書店で手に取って頂ければ幸いです。

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 ちなみに上掲の桜色じゃない方の『ふらんす』は、高校生の頃に読んでいた号(1988年)です。

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傑作。黙って買って読め--安田峰俊『境界の民』

書評

 安田峰俊『境界の民』、読了。掛け値無しの傑作である。繰り返し言うけど、すぐAmazonでポチるか本屋に走った方がイイ。これ読まないのは生きてるの損してるくらい勿体ないから。 

境界の民  難民、遺民、抵抗者。 国と国の境界線に立つ人々

境界の民 難民、遺民、抵抗者。 国と国の境界線に立つ人々

 

  繰り返し言ってるコトだが、「社会科学者の朝の祈りはノンフィクションを読むこと」。こういう素晴らしいノンフィクションを読まない奴は、即刻、社会科学者を廃業すべきである。

 著者は、1982年生まれで、私とちょうど一回り下の世代だが、この世代から、このような傑作が生まれるとは、自分も歳を取ったと思った。甲子園で球投げたり打ったりしているニイちゃん達がいつの間にか年下みたいな。

 著者の作品は『和僑--農民、やくざ、風俗嬢。中国の夕闇に住む日本人』から読んでいる。『和僑』は、冒頭の雲南省在住の2ちゃんVipperの話で引き込まれた。(これも、めちゃくちゃ面白いから黙って買って読め)。 

和僑    農民、やくざ、風俗嬢。中国の夕闇に住む日本人

和僑 農民、やくざ、風俗嬢。中国の夕闇に住む日本人

 

  私も1990年代前半、雲南界隈(昆明・大理・麗江)をブラブラしていた。当時は人民元(RMB)と外幣(FEC)が存在し、上海外灘の和平飯店前とかで換銭すると、「ウイグル・マジック」に引っ掛かったりしていたのを懐かしく思い出す。

 本書の中でも出て来るウイグル人だが、わたしのウイグル人にまつわる記憶は、上記の違法両替の際のエピソードと、当時、上海でバスに乗ってる時、ウイグル人の集団が喧嘩を始めて、バスの中でダイナミックにドロップキックをカマしていたことだ。当時のバス賃(トロリーバスだったよな)、5毛くらいだったと思うが、今の中国の物価からは考えられんな。

閑話休題。

 『境界の民』、研究室に忘れて来たので、以下は記憶に頼って記すが、「いちょう団地」について触れている冒頭の章で、いきなりヤラれた。この多国籍団地については、以前NHKの番組でも触れられていて、ずっと関心を持っていたのだが、ここまできちんと取材したものが出るとは、と。

www.nhk.or.jp

【人種のるつぼ】神奈川の多国籍団地「県営いちょう団地」でインドシナ一周気分を味わってきた Byクーロン黒沢 | ロケットニュース24

 昨年のゼミで扱ったテキストの中でも「無国籍者」の話が出て来てたんだけど、ここまでリアルに描き出しているのは、素晴らしいと思った。あと、これは本書全編にわたって通底していることなのだが、筆者の姿勢が素晴らしい。マイノリティに関わる人間は、往々にして或る種の醜悪さをさらけ出すのだが、そういうのが全く無く、非常に謙抑的。感銘さえ受けた。

 本書でこの他に扱われるのは、ウイグル人と日本の支援団体の闇、中国軍閥の子孫と歌舞伎町、日本人を麻痺させる台湾の甘い罠、とか色々なのだが、これらについては、ここに書くと、読む楽しみが削がれるので、ぜひ実際に読んでみて欲しい。事実は小説より奇なりを地で行っている。

 法哲学や政治哲学で、「多文化主義(multiculturalism)」とか「アイデンティティの政治(Identity Politics)」とか「差異の政治(politics of difference)」とかあるけど、Iris Marion Young とかみたいな凡庸なもん読む暇があったら、黙ってこの本を百回読め、なのである。

 繰り返しになるが、とにかく黙って読めで、「面白くなかったら俺がカネ払ってやってもイイわ」くらい面白い。次回作に更に期待したい。

 以上、テキトーな記憶に頼って書いているので、本を持って帰ったら少し書き直すかも。

希少な資源としての権力の育て方--砂原庸介『民主主義の条件』

書評

 

民主主義の条件

民主主義の条件

 

  巷では第18回統一地方選挙が繰り広げられているが、本日、折よく砂原庸介『民主主義の条件』(東洋経済)を読了した。とても読みやすい本だが、だからこそ著者の苦心が偲ばれ、また自分が書く際の参考にもなった。

 ひと言で本書の肝は何か?と聞かれたら、多分それは「多数派のつくり方」であって、そこでは「政党」が重要な役割を果たすことになる。もっと言うと、これは「選挙(制度)」に関する、じつに簡にして要を得た本で、これまで出ている選挙関係の一般向け書籍の中では、簡明さと精確さを兼ね備えた点で、群を抜いている。

 法学部で学んでいる人は「選挙」とか「政党」と聞くと「一票の格差」とか「八幡製鉄事件」とかを個別バラバラに想起するだろうが、この本を読めば、それら全てがどのように有機的に連関しているのかを知ることが出来る。

 以前、ある研究会で聞いた「権力の過剰と希少」という話があった。法学者は国法の頂点たる憲法自体が権力制限規範であることからも明らかなように、いかにして過剰になりがちな権力を制限するかに注目するが、これに対して政治学者は権力はむしろ希少で、いかにしてそれを育むかに関心を持つ、というものである。

 本書はこの点、希少な資源としての権力(多数派形成、政党など)の育成を選挙という制度知の観点からじっくりと分かりやすく考察するもので、上記の意味での政治学の「王道」を行く。

 以下、個別の論点になるが、中選挙区制の問題点の話は大変面白かった。1994年に廃止されるまで日本の衆院選は中選挙区制だったのだが、わたしは家族の関係で(政治家ではない)子どもの頃から選挙が身近だったため、あの中選挙区制下でのタコ殴りみたいな血みどろの選挙がすり込まれており、その点、中選挙区制へのやみがたいノスタルジーがあったのだが、今回この本を読んで、憑き物が落ちたような気もした。

 話が少し脱線するが、わたしの郷里は大分県別府市で、この準農村選挙区における選挙の生々しい実態については、ジェラルド・カーチス『代議士の誕生』を読めば、よく分かる。この本については以前このブログでも触れたが、名著なので、中選挙区制をもはや歴史としてしか知らない今の学生も、この本を読めば、55年体制下(中選挙区制下)での選挙が、どういうものだったのか、良く分かると思う。 

ジェラルド・カーティス 『代議士の誕生』 - 法哲学/研究教育余録

日経BPクラシックス 代議士の誕生

日経BPクラシックス 代議士の誕生

 

  中選挙区制の章では、「世田谷区」(区議会選挙)が取り上げられていたが、長らく世田谷に暮らしたわたしにとって、「他の候補との違いを強調する」、「選択肢が多すぎると、まともに選ぶことが出来なくなる。」、「ごく一部の支持によって当選出来るとなると、どれだけひどい議員であっても、「選挙で落選させる」という脅しが効きにくくなります。」[33-34]といった辺りの記述は、そうそうと苦笑せざるを得なかった。都議もそうなんだけど、本当に信じられないくらいどうしようもない議員(候補者)でも、落ちないんだな、コレが。

 あと、本当にどうでもイイ話だが、政党内デモクラシーに関する章で取り上げられた往時の自民党総裁選に関する下りで「サントリー、ニッカ、オールドパー[107]」という懐かしい話が出て来るのだが、当時はまだ日本オールドパーっていう会社があったよね、と思いだした。その後、五反田に本社を置く United Distillers Japan が扱ったんだけど、この会社も今はもう無い。この辺りについては、どうでもイイ話だが、以下。

「スコッチ親善大使」回想記 - 法哲学/研究教育余録

 細かいネタだが、「架空転入」の話[169]は面白かった。Fukumoto and Horiuchi, 2011, Making Outsiders’ Votes Count: Detecting Electoral Fraud Through a Natural Experiment。あとで読んでみよ。

Making Outsiders’ Votes Count: Detecting Electoral Fraud Through a Natural Experiment by Kentaro Fukumoto, Yusaku Horiuchi :: SSRN

 

 本書の結論は実に明確で、以下の通り。

1.まずは地方議会の選挙制度改革。
2.第三者機関による選挙制度改革の提案
3.非拘束名簿式比例代表制が現実的

 

 余談だが、ちょうど選挙中(東京は未だ公示されていないが)ということもあり、公職選挙法については、どうなんだろう?とも、少し思った。

 

 最後になるが、本書は明確に自らの立場を打ち出しており、もって議論喚起もしていて、とても好感を持った。--冒頭にも書いた通り、統一地方選の今こそ読むべき本だろう。少なからぬわたしの友人たちも今回の選挙に挑んでいるが、今週末の12日(日)、若しくは26日(日)が投票日である。定価1600円+税くらいなんで、学生はみんな買うとイイと思う、あと立候補してるひとも。

 

 追記--twitter(鍵垢)の方から面白いレスポンスを頂いたので以下、転載しておく。

 

 国際政治は「権力を上手く育てたい」(国際組織や地域統合)一方で、「権力を特定国に集中させたくない」(勢力均衡や集団安保)と、ねじれているなぁと感じました。国際政治学の異形さが浮き彫りにされたというか……笑

 国際組織シンパの人は、組織の権力が過剰になることに楽観的なんじゃないかと疑問を持っていましたが、それが「政治学的」特徴とは思いませんでした。ありがとうございました。